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「新・人間革命」第15巻〔蘇生の章〕(公害問題)

 「栄光の年」 の 1月の池田塾は、『新・人間革命』 第15巻を研鑽します。
 これは全国の各方面から見れば、2~3回分遅れているのではないかと思います。それは、昨年 1月に北九州市議選、7月にインド青年交流団が来訪し、再度、第3巻 〔月氏の章〕 を研鑽したからです。
 これからは、ひと月おきの研鑽になるそうです。

 〔蘇生〕
 それは、生命のルネサンスの朝を告げる号砲であった。
 「広宣流布とはまさしく “妙法の大地に展開する大文化運動” である
 一九七〇年(昭和四十五年)五月三日の本部総会での、山本伸一のこの宣言によって、新しき時代の幕が切って落とされたのだ。
 妙法の大地に展開する大文化運動――それは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設である。
 (新・人間革命15巻・7P)

 この年から、創価学会は、本格的な人間文化創造への取り組みを開始しようとしていた。
 近年、人間精神の開拓を忘れ、豊かさのみを追求してきた現代社会の歪みが、公害問題を引き起こしていた。
 その代表的なものが、富山県・神通川流域に多発した、カドミウムによる イタイイタイ病であり、熊本県・水俣市の メチル水銀中毒による水俣病である。これらはともに地元の大企業が、重金属に汚染された工場排水を河川や海に垂れ流し、よって引き起こされた公害病である。
 しかも水俣の場合、患者の症状を保健所が確認(S 31・5月)してから、政府が工場排水によるメチル水銀であると結論(S 43・9月)を下すまで、十二年の歳月が経過したのである。この間企業は、水俣病との因果関係を否定し、国や地方自治体も、排水が疑われていても、建前を優先させ、漁獲の禁止等の何らかの手も打たなかった。
 この対応の遅れは、甚大な被害を拡大させ、あまつさえ、新潟県・阿賀野川流域において、第二の水俣病の発生(S 40年)を許してしまったのである。

 池田先生は、公害問題について、二本の原稿の執筆にあたっていました。一つは、ある大手出版社の総合月刊誌からの依頼でした。
 「日本は “公害実験国か」 と題してペンをとり、反公害闘争の矢を放った。
 ここで彼は、まず、水俣病や イタイイタイなどは、「公害」 というより、その本質は、道義的責任の欠落した企業が引き起こした 「事件」 であり、それは、「未必の故意の殺人」 であると、糾弾(きゅうだん)していった。
 ………
 次いで伸一は、これから、真の公害として対処しなければならないのは、広範な地球的規模での、空気、水、土地の破壊、汚染であると訴えていった。 それは、一個人や一企業の、道義的責任感や努力だけではいかんともしがたい問題であり、加害者であっても、同時に被害者になることを免(まぬか)れぬ、万人に共通した危機であるからだ。
 彼は、その公害の要因となったものこそ、「進歩への信仰であり、環境支配のあくなき欲望である」 と結論した。
 もちろん、それによって、科学技術の発達があり、現代の物質的繁栄がもたらされた面は否定できない。
 しかし、同時にそれは、文明の根底的な歪みを生じさせ、公害という全人類的な危機を招くに至ったのである。
 伸一は、その根本的な解決のためには、「人間を、いかなる存在としてとらえるかということからはじまり、人間と、それを取り巻き、支える文化的、自然的環境との関係のあり方について、まったく新しく設計し、構築し直さなければならない」 と訴えた。
 さらに彼は、公害を克服するうえで、「生命の尊厳」 の哲学が必要であることは言うまでもないが、その内実の厳しい検証こそが、最も大切であると述べた。
 なぜなら、「生命の尊厳」 は、これまでに、誰もが口にしてきたことであるからだ。 さらに、あくなき環境支配を促(うなが)した独善的な思想のなかにさえ、「生命の尊厳」 という発想があるからだ。
 いや、その誤った “人間生命の尊厳観” こそ、無制限な自然の破壊と汚染を生んだ元凶にほかならないのだ。
 ………
 「自然を、人間に征服されるべきものとし、いくら破壊され、犠牲にされてもかまわぬとする “ヒューマニズム” は、実は、人間の エゴイズムであって、かえって人間の人間の生存を危うくする “アンチ・ヒューニズム” にほかならない。 真の ヒューマニズムは、人間と自然との調和、もっと端的に言えば、人間と、それを取り巻く環境としての自然とは、一体なのだという視点に立った “ヒューマニズム” であるべきである」
 本来、人間もまた一つの生物であり、大自然をつくりあげている悠久(ゆうきゅう)の生命の環(わ)の、一部分にすぎない。 その環は、生命が幾重にも連なり合った生命の連鎖であって、一つが壊されれば全体が変調をきたし、一ヵ所に毒物が混入されれば、全体が汚染されてしまうのだ。
 また、人間が無限と思い込んできた、自然の恩恵も、実は有限であり、地球という “宇宙船” の貯蔵物質にすぎない。 そうした視点をもたない、“独善的な ヒューマニズム” に支えられた人類文明は、自然の再生産の能力を遥かに上回る消費を続け、自然を破壊し、汚染して、生命の自然の メカニズムそのものを破壊しているのだ。
 (同書・25~28P)

 公害病の恐ろしさは、胎児性水俣病のように世代を超えて影響を及ぼし被害を被るのである。ちょうど放射能のような作用である。現代、身の回りの環境を見れば、無数の人工の造物に覆われている。薬物や添加物、排気ガスや温度上昇、今や地球規模で環境破壊が進んでいる。今は量も少なく、影響もないと思われているが、百年・二百年・千年・万年後の人類はどうなっているのか分からない。 
 このように科学・技術の発達が、いま、人類自らを滅ぼす、恐るべき脅威となって降りかかってきているのである。

 先生の言論闘争の二つは、「東洋学術研究」 秋季号に 「人間と環境の哲学」 と題して、更に哲学的な観点から提起されました。
 公害問題の淵源は、自然はいかに破壊されても調和は保つという楽観論と、人間こそ宇宙のいっさいに君臨すべく資格を与えられた万物の霊長であるとする考え方にあると。
 キリスト教の教えのなかに、神は神自身のの姿に似せて人間を創ったと、すなわち人間こそ地上の支配者であり、すべての生物は人間に従い・仕えるため、自然や土地も人間のために存在する というのである。はなはだ不遜なる思想である。
 この征服と支配の、哲学の底にある、人間の傲(おご)りと、独善がもたらした破局である。人間の存在は、宇宙の万物に支えられているという、関係を無視した、必然の結果である と述べられている。
 この公害の解決のためには、その根源に立ち返り、文明それ自体の “体質” をつくり直さなければならないとして、そのための仏法の生命哲理に言及していきました。

 「人間と、環境との関係について、仏教哲学では、依正不二と捉えていく。 依正不二とは、依報と正報とが、不可分の一体をなしているということで、正報とは生命主体であり、依報とは、その生命体を形成し、その活動を助ける環境世界である。 ――生命主体と、その環境とは、一応、概念として分けられるが、これらは相互に密接に関係し合い、一体をなしているのである。 これを、更に体系化した哲理に、一念三千がある。 一念三千とは、生命の実体を、三千の範疇(はんちゅう)に分析して論じたもので、仏教の生命哲学の極説とされている。 (中略)その中に、三世間といって、五陰、衆生、国土があげられている」
 五陰世間とは、個々の生命を、生理的、心理的にみる見方であり、衆生世間とは、広義に言えば、社会学的な見方である。 国土世間とは、その生命にとっての、自然環境との関係性の側面といえよう。 仏法では、大宇宙のすべてを生命ととらえ、草木や石、砂の一粒にも、仏の生命の実在を認め、一切を尊極の当体と見るのである。
 そして、伸一は、人間が環境と調和し、しかも人間が主体性を確立していくための、確固たる哲学的、思想的基盤こそ、この大乗仏教の哲理であることを強く訴えて、「人間と環境の哲学」 の結論としたのである。
 (同書・32P)
 
 先生は “人間が環境と調和し、しかも人間が主体性を確立していくための、確固たる哲学的、思想的基盤こそ、この大乗仏教の哲理である” と、すなわち日蓮大聖人の大生命哲学・以外にはないと述べられています。
 自身の人間革命が 「やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」 ということを確信し、世界広宣流布新時代の到来に、勇躍歓喜し前進しましょう。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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