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「希望の源泉」(21)(虚空会の儀式)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 21回は、「生命こそが宝塔」 という思想が生み出すもの であります。
 今回から 「見宝塔品第十一」 の章に入ります。  (第三文明・2018/4月・53P)

 「見宝塔品」 の 「宝塔」 とは何か?
 この品には、突然、大地から巨大な 「宝塔」(宝の塔)が出現し、空中に浮かぶという、まるで、壮大な SF 映画の一場面のような、現実にはあり得ないことが説かれている。 まさに、「時空を超えた世界」 での説法が展開されています。
 この宝塔について、次のように語られています。

 ――  日蓮が教学面で最大のよりどころとしていた天台の解釈では、宝塔の示すものについて、はっきりとは述べられていません。 それに対して日蓮の御書では、“宝塔とは生命のことである” と明確に、しかも繰り返し書かれています。 たとえば、『御義口伝』 には、「宝とは五陰(ごおん)なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり」(739P) とあります。 「五陰」 とは 「生命を構成する五つの要素」 のことで、要は 「生命自体が宇宙大の宝塔である」 という意味になります。……
 戸田城聖・第二代会長も、宝塔について、「これ(虚空会の儀式)ははなはだ非科学的のように思われるがいかん。 しかし仏法の奥底よりこれをみるならば、きわめて自然の儀式である」 (『戸田城聖全集』第六巻)と……。 つまり、宝塔は生命の尊厳の象徴ではあるが、決して架空の存在ではなく、仏眼(ぶつげん)を持つ者にははっきり見えるというのです。


 天台が 「宝塔」 について、はっきり解釈しなかったということは、まさに、末法の教主・日蓮大聖人に、譲られたたとしか思われません。
 大聖人は 『阿仏房御書』 に、「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」(1304P) と仰せです。
 御本尊を受持した衆生の当体こそ、宝塔にほかならないというのです。 そして 「宝塔又南無妙法蓮華経なり」 と仰せになり、宝塔(虚空会の儀式)をもって、末法の衆生のために “文字曼荼羅の御本尊” を、顕わしてくださいました。まさに、見宝塔品こそ、御本尊の設計図であったのであります。 
 
 佐藤 勝  宗教は心のなかの現象だから、現実世界における物理的な大きさには左右されません。 それこそ、宇宙大のものをわが心のなかに置くことも自在なのです。 いわば、心のなかにも宇宙がある。 心のどこにあるのか、座標軸上に示すことはできないけれど、確かにある。 また、見える人には見えるのです。
 「目には見えないけれど、確実に存在するもの」 は、世のなかにたくさんあります。 たとえば、信頼・愛・希望……どれも目には見えませんが、確かにある。 そもそもわれわれの生命それ自体も、「これが生命です」 と見せることはできませんが、確かにある。
 そう考えてみれば、宝塔を架空のものではなく “生命のなかの現実” として捉えた戸田会長の考え方は、キリスト教徒の私にもすんなり理解できます。


 戸田先生は獄中にて、一日一万遍の唱題と法華経を真読することに徹せられ、虚空会の儀式に列座しているご自身を発見いたしました(獄中の悟達)。 その後・釈放された日の夜、ご自宅の御本尊にお目通りし、胸中の実感を確認される様子が 「人間革命」 に記されております。
  ご参照ください。 〔ワイド文庫 『人間革命』 第1巻・55P)〕
             拙ブログの記事 ―→ ここから

 すべての宗教を結ぶ生命という共通項
 ――  創価学会の折伏はとかく、「他宗教に対する攻撃」 とみられがちです。 しかしそれは、他宗教の持つ、生命本来の働きから逸脱した部分を 「正している」 だけであって、決して 「攻撃」 ではないのだと思います。

 佐藤  学会の折伏が他宗教への攻撃ではないことの端的な証左が、池田会長が展開してきた広範な宗教間対話でしょう。 キリスト教、イスラム教など、異なる宗教を持つ各国の識者・指導者たちと、実りある対話集を数多くものにしてきたのですから……。
 池田・トインビー対談(『二十一世紀への対話』)について、「あれは池田会長から トインビー博士への、広い意味での折伏であった」 と述べましたが、他の対談集についてもしかりです。 池田会長の宗教間対話は、深い次元において折伏なのだと思います。 しかしそれは、「すべての生命は宝塔である」 という絶対的生命尊重の思想を根本に持つがゆえに、根本的な意味で相手を尊重する対話になるわけです。


 牧口先生が、日蓮仏法を 「超宗教」 と表現したことがあります。 「生命こそ宝塔である」 とすれば、すべての宗教の大本が 「生命」 ということになると思います。
 佐藤氏も言われているように、“「すべての生命は宝塔である」 という絶対的生命尊重の思想を根本に持つがゆえに、根本的な意味で相手を尊重する対話になる” わけである。
 これは法華経に説かれている不軽菩薩の礼拝行と同じであり、折伏は相手の仏性を信ずる生命尊重の修行なのであります。

 世界宗教に 「聖地」 はいらない
 ――  その御本尊に日々の勤行唱題で向き合うことによって、学会員は己心に 「生命の宝塔」 を打ち立てることができます。 学会が宗祖ゆかりの地を聖地としてあがめない理由も、そこにあるのでしょう。 池田会長がこの章で言われるとおり、「御本尊を強盛な信心で拝する所は、いずこであれ、そこが最高の “聖地” である」 (法華経の智慧3巻・33P) からです。

 佐藤  この章に、宗教社会学者のブライアン・ウイルソン博士の 「特定の地を聖地として、そこに行かなければならないというような宗教では、世界宗教にはなりえない」 という言葉が紹介されているとおり、“聖地主義” をとらないことも世界宗教の特徴の一つです。 学会の場合、東京・信濃町の 「広宣流布大誓堂」 は、「会憲」 に明記されているとり、「信仰の中心道場」 であって 「聖地」 ではありません。 世界宗教には、聖地は必要ないが 「中心」 は必要なのです。

 日蓮大聖人は、「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為(た)るべし」(1343P) と仰せられております。
 大聖人は、竜の口の刑場において、仏界の大生命力を発揮され、幕府権力を打ち破りました。
 戸田先生は、獄中において、地涌の菩薩の本亊を悟られました。 ともに、人生にとって最悪の場所であるが、“何れの処にても候へ常寂光の都為るべし” という御金言を、実証することができたのであります。
 
 池田先生は、「『いま』 永遠なる宇宙生命と一体になり、『ここで』 全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。 その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な 『生命の旅』 といえるのでないだろうか」 と述べられている。 (同書3巻・34P) 
 ゆえに、特定の時や場所を選ぶのではない。 「いま・ここで」 永遠なる虚空会の儀式に連なることができるのであります。

テーマ : 法華経の智慧
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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