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「希望の源泉」(28)(女人成仏)

  「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 28 回は、法華経の 「女人成仏」 が語りかけるもの であります。 今回も 「提婆達多品」 の章の続きです。

 爾前・権経で成仏できないとされた者に、二乗(声聞・縁覚)と悪人・女人がおります。 二乗は方便品第二 で 「二乗作仏」 は説かれています。
 提婆達多品第十二 の前半は 「悪人成仏」 でした。 後半の今回は 「女人成仏」 に入ります。 極悪人の提婆達多と八歳の竜女の成仏を述べて、法華経の功徳の偉大さを証明し流通を勧めている章です。
 “法華経の即身成仏は、現世の肉身のままの成仏、言い換えれば 「凡夫成仏」 のことなのです。 「現世そのものを仏の世界の変えていく」 という考え方が、法華経の大きな特徴と言えます“ と語られている。

 宗教における 「男女平等」 の問題
 “提婆達多品における竜女の成仏が、一度男に変わってから成仏する 「変成男子(へんじょうなんし)」 の形で描かれるため、「やはり女性差別が残っている」 と批判する向きもあります” と語られている。

 佐藤 優  ただ、キリスト教に比べると、仏教は一般に 「男権性」 があまり強くないのではないでしょうか。 一人の人間のなかに男性性と女性性が混在しているという捉え方を、早い段階からしていたようですし……。この章でも、池田会長が次のように発言されています。

  「一人の人間のなかに 『男性的なるもの』 と 『女性的なるもの』 が調和していなければならない。 それが人格の成熟であるし、自己実現でしょう」 (法華経の智慧3巻・146P)
 また、一人の人間のなかの男性性・女性性の割合に大きな個人差があるのは当然だし、だからこそ LGBT (性的少数者の総称)の人たちもいて当然なわけですね。
 そうした考え方については、同性愛が宗教上の罪(sin)とされてきた キリスト教よりも、仏教の方が先駆的でした。 なかでも創価学会には、個々人の性的思考に対する偏見が、少なくとも教義上はまったくありません。


 「変成男子」 が描かれているからと言っても、仏教は女性差別の宗教ではないのである。 当時の インドの ヒンドゥ社会では、男尊女卑の思想が強く影響し、女性の成仏を信じることできなかった 舎利弗等の者たちに対して、成仏の姿を示すための方便として男子の姿を現じたとされる。
 生命の実相として “一人の人間のなかに 「男性的なるもの」 と 「女性的なるもの」 がある” とあります。 一方の女性が成仏できなければ、もう一方の男性の成仏も あり得ないのである。 これ、法華経の 「十界互具・一念三千」 の平等大慧の哲理である。
 大聖人は 「法華経の行者は男女悉(ことごと)く世尊に非ずや」(813P) と仰せです。
 仏教には、もともと 女性差別の思想はないのである。

 男女の役割を固定化しない池田会長
 ――  仏教に比較的 「男権性」 がないのは、「空」 や 「無常」、輪廻を説く教えだからということもあると思います。 一つの生命がときには男として生まれ、別の世には、女性として生まれることもある。 また、男性・女性という性別も、常に移ろいゆく 「無常」 の世にあっては、ほんの一時の 「仮の姿」 でしかない……そのような捉え方が根底にあるからこそ、男性性・女性性に執着せずに済むのではないでしょうか。

 佐藤  そうかもしれません。 それと、私が創価学会・公明党の多くの人たちと接して感心させられるのは、女性たちに 「男まさりになって頑張ろう」 というような力(りき)みや無理が感じられないことです。 ………
 それは、男女の役割を固定的に考えて押し付けることをしない、池田会長の柔軟なご指導の反映かもしれません。 会長のそのようなご指導は、この章の次の一節に集約されています。

 「男性も、いわゆる 『男らしい』 だけでは粗暴になってしまう。 女性の考え方、感性を理解できるこまやかさ、優しさが必要でしょう。 女性の場合も、いわゆる 『女らしい』 だけでは十分とは言えないでしょう。 (中略)
 どんな社会においても、男性は男性らしさ、女性は女性らしさが、その社会なりに要求されます。 その要求に適応すればするほど、それ以外の自分の特質が抑圧されてしまう面がある。 それは、ある意味で、しかたのないことかもしれないが、だからこそ、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか。
 結婚の意義の一つも、こういう自己完成にあると思う。 もちろん、結婚しなければならないという意味ではありません」
 (同書3巻・147P)
 シンプルな言葉ですが、私は ジェンダー(社会的性差)問題をめぐる智慧として、これ以上のものはないと感じます。
 男性が女性を睥睨(へいげい)するような今の男性優位社会は、明らかにおかしい。 さりとて、仮に女性優位社会が到来したとしても、それは今の歪(ゆが)んだ社会構造を逆転させるだけで、歪みそのものは解消されません。 だからこそ、真の男女平等社会への一歩として、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに人格の完成に向けて高め合っていくべきだ、と池田会長は言われるのです。


 先生は “男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか” と指導されています。
 学び合うためには、お互いに尊敬し合わなければならないと思います。 そのためには、常不軽菩薩の礼拝行の精神を学ばなければならないと思います。

 フェミニズムからの仏教批判への本質的応答
 佐藤  この章で池田会長が展開された、“「男性的なるもの」 と 「女性的なるもの」 が調和してこそ人間であり、真の仏教はその調和を目指している” という視点こそ、フェミニズム(女性解放思想)の仏教批判に対する本質的応答であると思います。
 池田会長の次のような発言も、私には印象的でした。

 「大切なことは、女性も男性も、人間として 『幸福いなる』 ということです。 幸福になるのが 『目的』 であり、他は 『手段』 です。 『こうあるべきだ』 と決めつけ、それが、どんなに正論のように見えても、それを実行して不幸になったのでは何にもなりません。 また女性が不幸のままで男性だけが幸福になれるわけもない」 (同書3巻・143P)
 まさにこれこそが本質ではないでしょうか。

 先生は “大切なことは、女性も男性も、人間として 「幸福いなる」 ということです” と述べられています。
 絶対的幸福といえば、成仏することである。 この成仏を法華経迹門では、舎利弗等の二乗作仏や提婆達多の悪人成仏は、無量劫すぎて作仏する という 仏の 「記別」 を受けただけである。 これに比して、初めて成仏の現証として示されたのが竜女の即身成仏である。
 竜王の娘で八歳の竜女は、女性であり、畜身であり、しかもまだ幼いということで、二重三重に差別され、成仏からもっとも遠い存在である と考えられていたのである。
 その竜女でさえも成仏できると説くことは、この世で成仏できない存在はないということを示しています。

 提婆達多品がある第五巻について、大聖人は 「第五の巻に即身成仏と申す 一経第一の肝心あり」(1311P) と仰せられている。
 池田先生は、大聖人が 「一経第一の肝心」 と言われたごとく、この品に即身成仏が説かれていることが ポイントです。 「あらゆる人を成仏させるのだ」 というのが法華経の心です。 人々にとって法門以上に切実なのは、自分が成仏できるかどうかということです。 提婆品は、まさにその問題に端的に答えを示している、と述べられています。 (同書3巻・84P)

テーマ : 法華経の智慧
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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