弥陀の本願・まことか

 浄土宗の信者さん達は、弥陀の本願を一片の疑いもなく、念仏を唱えれば極楽往生できると信じて居るようである。信ずることは良いことであると言っても、信じたものが間違っていれば、こちらは損害を被るのである。

 そもそも弥陀の三部経は、釈尊の一代聖教を判別した五時(華厳・阿含・方等・般若・法華) の内、方等時の経であり、『無量義経』 に 「四十余年・未顕真実」 と、『法華経譬喩品』 には 「不受余経一偈(余経の一偈をも受けざれ)」 と断わられた権大乗の経である。この判釈の大前提を、肝に銘ずるべきである。

 天台大師云く 「修多羅と合う者は録して之を用いよ、文なく義なきは信受すべからず」(219P) と述べられています。文なく義なき、即ち道理に反するものは信受すべからずである。阿弥陀仏や極楽浄土など、実体のない幻のようなものである。

 親鸞の教説と言われる歎異抄に、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の……」 とあります。

 ここでは弥陀の本願(法蔵比丘の四十八願) を、無条件・無批判的に受け入れて、根本的・第一条件にしている。そもそも無量寿経(弥陀の本願) は、誰が説いたのかと言えば釈尊である。ならば、釈尊を第一義にして 「釈尊の説教まことにおはしまさば、弥陀の本願 ……」 とすべきである。それを、弥陀を第一義にする誤りを犯し、正反対に論じている。

 ところで、釈尊は無量寿経や弥陀経は、“真実を顕わしてない経だから捨てよ(四十余年・未顕真実)” と説いた。
 法然は、法華経は “機根に合わず、難しいから捨てよ” と言った。どちらの説をとるべきか。

 伝教大師云く 「仏説に依憑(えひよう) して口伝を信ずること莫(なか)れ」(219P) と。涅槃経に仏最後の御遺言として 「法に依って人に依らざれ」 と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候、(1155P) と仰せです。とうぜん、釈尊の説をとるべきである。

 法然は仏説に依らず、人師の曇鸞・道綽・善導の謬釈(びゅうしゃく)を取り入れ、あまつさえ拡大解釈して、真実の法華経を 「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」(選択集) と放棄させた。

 釈尊一仏の説が、法華経と爾前経で水火の違いのある場合は 「先判・後判の中には後判につくべし」(199P) と仰せのように、この場合は後判、すなわち、後から説かれた法華経を取らなければならないのである。

 また、浄土宗では阿弥陀如来が大宇宙の中の本師・本仏であり、釈迦如来は地球で阿弥陀の教えを弘める弟子だと言って、釈尊を見下している。釈尊は権大乗教のなかで、阿弥陀如来の外・薬師・薬王・大日等、数多くの十方の諸仏・諸菩薩を説いています。その中の阿弥陀如来だけが本仏で、釈迦如来は弟子などと、どの経典に書いてあるのか? 全部いい加減な・自分勝手な妄説なのである。

 ところで、阿弥陀如来を説いたのは釈尊で、言わば作者である。そこで説かれた阿弥陀如来は作品である。作品の出来ばえが素晴らしいからと言って、作者を見下す者が居るのでしょうか。
 たとえば、“鉄腕アトム” の作者は手塚治虫氏である。手塚先生に向かって、“鉄腕アトムは空を自由自在に飛べて素晴らしいが、貴方は空も飛べない唯の人だ” と言ったとしたら、聞くものは皆唖然とするだろう。これと同じことを、法然や親鸞は言っていることになるのである。

 あまつさえ、皆成仏道の法華経等を聖道門と名づけ、これを修行する者を 「群賊」 呼ばわりしている。しかれば、釈尊はじめ竜樹・天親・天台・伝教等の仏教史に輝く聖人方も、法然の手にかかれば群賊となってしまう。

 これほど、仏道の正師を悪口罵詈(めり)し、経を蔑(ないがし)ろにし、仏祖三宝尊を破却するとは、まさに 「悪鬼入其身(悪鬼その身に入る)」 の姿そのものである。かかるものの弟子とならん者は、五逆罪も作らずして、正法誹謗の与同罪による入阿鼻獄は疑いないものである。心しなければならないのである。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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