禅天魔

 禅宗は菩提達磨を初祖として、坐禅修行によって悟りを得ようとする宗派である。霊山会上で釈尊が黙然として花をつまんで大衆に示したとき、その意味を理解できたのは迦葉尊者一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付属された(粘崋微笑)。これは作り話なのである。こんな偽経(大梵天王問仏決疑経)を根本としているのである。

 迦葉より第二第三祖と代々相伝して、第二十八祖の達磨に至ったとしている。日本では鎌倉時代に、栄西の臨済宗・道元が開いた曹洞宗などがある。

 禅宗の教義は、“戒・定・慧” の三学のうち、特に “定” を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追求ではなく、そのために文字を立てず(不立文字)、教法は仏より伝えられたものではなく(仏祖不伝)、別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の経法は月をさす指のようなものであり、月が分かれば経は無用とし、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心が直ちに仏性を見ることが出来る(直指人心・見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修せず、画像木像の仏菩薩をも否定する。

 禅宗では 仏祖不伝 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、東土の六祖より相伝されていると主張されている。また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、これとて仏祖から伝えられたものではないのか。

 また、祖師無用 と言いながら、達磨を禅祖としている。祖師無用ならば達磨も無用なはずである。また仏の教法を無用と言いながら、朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。仏・菩薩を信用しないと言いながら、禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えている。すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、自語相違も甚だしい。

 『涅槃経』 に 「若し仏の所説に順わざる者有らば、当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」(152P) とあるように、教外別伝・不立文字といって仏典を否定し、仏の所説に従わないのは、魔の所為以外の何ものでもない。 
 ゆえに、日蓮大聖人は禅宗を判別して、「禅宗は天魔の所為」(1073P) と喝破されている。客観的な法理・教説よりも、自身の凡夫の無明の心を基準にしていくもので、その悟りは仏力・法力の裏づけのない、ただ凡夫の魔に支配された観念にしか過ぎないのである。

 日蓮大聖人の禅宗破折のご金言は、数多くありますが、その一部分を記させて頂きます。

 涅槃経に云く 「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云、愚癡(ぐち)無懺(むざん)の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。(152P)
 禅宗は理性の仏を貴んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕(お)つ定めて是れ阿鼻の罪人なり、故に法華経に云く 「増上慢の比丘は将(まさ)に大坑に堕ちんとす」(152P)
 
 若し教を離れて之を伝うといわば教を離れて理なく理を離れて教無し、理全く教・教全く理と云う道理汝之を知らざるや、拈華微笑(ねんげみしょう) して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり、不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事・和漢両国に事旧(ふ)りぬ、(488P)

 若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば、此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや、其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし、(488P)

 文字は是一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり、されば人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質(すがた)なり、汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず、汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり、(380P)

 次に修多羅の教は月をさす指の如しと云うは月を見て後は徒(いたずら)者と云う義なるか若其義にて候わば御辺の親も徒者と云う義か又師匠は弟子の為に徒者か又大地は徒者か又天は徒者か、如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ御辺を出生して後はなにかせん、人の師は物を習い取るまでこそ用なれ習い取つて後は無用なり、夫れ天は雨露を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり大地は草木を出生せんが為なり草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し、是を世俗の者の譬に喉(のど)過ぬればあつさわすれ病愈(い)えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違わず相似たり、所詮修多羅と云うも文字なり文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり、(380P)

 若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、若し天台の止観一心三観に依るとならば止観一部の廃立・天台の本意に背く可からざるなり、若し止観修行の観心に依るとならば法華経に背く可からず止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。(527P)
 

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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