他力と自力

 世間では、弥陀の本願にすがって往生を願う念仏宗などを、「他力・他力本願」 という。
 一方、壁に向かって坐禅を組み自らの力で悟りを得ようとする禅宗などを、「自力・自力本願」 の宗派であると言われている。

 では、法華経ではどうなのかと云えば、他力でも・自力でもなく、その両方をも含んでいるのである。妙法の四力から云えば、自力とは修行者自身の持つ 「信力・行力」 であり、他力とは本尊の具えている 「仏力・法力」 である

 日蓮大聖人は、法華経の十界互具論の立場から、次のように仰せられています。
 「今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず」(御書403P)

 今の法華経は自力も単なる自力ではない。わが身に一切衆生の他の仏界も具えている。ゆえに我が身に本から自己の仏界も・他の仏界も具しているのである。ゆえに単なる自力ではないのである。
 だから今、仏に成るということは全く新しく別の存在として仏に成るということではなく、自己に本来具する自他の仏界を顕現することに他ならないのである。
 
 「又他力も定めて他力にあらず、他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり」(同403P)

 また、法華経は他力も単なる他力ではない。外道でいう自力から隔絶している他力ではなく、他の仏も我ら凡夫自身に具するゆえに単なる他力ではない。また他の仏も我ら凡夫と同じように、自らに仏界を具して顕現するのであります。

 上記のように法華経は、自力とか・他力とか言って、片一方に偏ることなく、円融・円満なる法理なのである。我らが御本尊を信じて唱題する仏道修行は、御本尊の 「仏力・法力」 と、衆生の 「信力・行力」 との境智冥合によって即身成仏するのである。

 たとえば鐘の音は、鐘がひとりで鳴るのでもない、撞木(しゅもく) が鳴るのでもない。両方がぶつかり合って、音が出るのである。信心も同じである。私どもの信力・行力に、御本尊の仏力・法力とが、相まって感応するから功徳が顕われるのである。

 池田先生は 円教とは、いずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革を説く宗教」 と言えるでしょう。
 「自力と他力の一致」 とは、自分を超える力(他力) を自分のなかに見ることです。
 つまり、大聖人の仏法で説かれる 「仏界の内在と涌現」 が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。
 (御書の世界第1巻・95P) と仰せられています。

 そのほかに、ご講演 「21世紀文明と大乗仏教」 の中に、他力と自力について、述べられているところがありますのでご参照ください。 ―→ ここから

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

はじめまして。コメント有り難うございました。

> 毎日、即身成仏しているということなのでしょうか?
> また、境涯革命と即身成仏は同じ事なのでしょうか?

 お問い合わせの件について、私の考えを述べます。ご参考にしてください。
 勤行・唱題しているその人は、もう既に、仏様であります。
 日寛上人は「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548P)と仰せです。
 「即身成仏」とは、我が身がそのままで成仏するということです。
 我が身を変えて、例えば、病身が健康に成り、貧乏が大金持ちに、煩悩を断ち切って仏に成るという考え方は、爾前経・権教の考え方であります。
 「南無妙法蓮華経」のみが、現実のこの世界で、今・この場所で・この身を離れて成仏は有り得ないと、徹底的に説いている真の「即身成仏」の法であります。

 また、上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界となす、故に知んぬ法華経を謗る心強きを悪業深重と号して地獄界と名づくるなり」(六巻抄22P)と仰せです。よくよくご思索の程を。

 「即身成仏」を現代語に約すれば、「境涯革命・人間革命」ということであり、同じことだと思います。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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