創価の法華経(その2)(総別の二義)

 前に 「創価の法華経」 のタイトルで書きましたところ、コメントがありました。そのコメントには、「創価の法華経」 は、“矛盾だらけの 「暗雲」” “「ご都合」 に即したもの” “日蓮大聖人の御書に反する創価学会の思想は、「法華経」 などとは呼べないと判断します” と言ってきました。

 私はここまで来れば、もう暴論としか言いようがないと思いました。そこで理論が重複するかも知れませんが、引きつづき 「創価の法華経(その2)」 として、私の考えを述べさせて頂きたいと思います。

 まずはじめに、「創価の法華経」 すなわち、“創価学会が実践している法華経” と言うことですが、これをそのように呼称することが、出来るのか・どうかと言うと、私は出来ると思っています。
 創価学会は、日蓮大聖人の法華経の精神を、寸分も違わず実践している教団である。「創価の法華経」 と言っても、何も日蓮大聖人の法華経と別のものを、立てようとか・示そうとか・行なうとか しているのではありません。

 ただ、“日蓮大聖人の法華経を実践している” と言うだけならば、大聖人を御本仏と認めていない身延や池上・法主信仰の日顕宗など、みな我が宗こそが、本山だ・直系だ・血脈があるなどと称している。
 ゆえに、同じ “南無妙法蓮華経” を唱えていても、教義内容や修行方法は、マチマチで違うのである。したがって、これ等のエセ日蓮宗との違いを際立たせるためにも、「創価学会」 の名は、強調しても強調し過ぎることはないと思います。

 つぎに法華経には 「総別の二義」 があり、別して言えば、法華経とは 「日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊」 のみである。
 総じて言えば、過去の日月燈明仏・大通智勝仏・その外三世十方の諸仏も、みな 「法華経」 を説いたのである。大聖人の本因妙のお立場からすれば別ものであるけど、「一仏乗」 を説いている分ではみな同じで、総じて 「法華経」 と言うのである。
 創価学会が “大聖人の南無妙法蓮華経” を現代に約して実践し、広宣流布している仏法も、また 「一仏乗」 である。しからば、創価学会の思想哲学・指導実践は、どこをとっても、「法華経」 と言えるのである。

 しかし、「又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055P) とのご遺誡があります。あくまでも、総じて・広義に釈した立場である・ことを、ご了解ください。

 「一仏乗」 とは、凡夫の己心に仏界を具していると云うことであり、この法理は法華経にきて初めて説かれたものである。では、その前の権教はと云えば、
 「法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う、九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず、凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に」(403P) と仰せられています。
 
 池田先生は、次のようにご指導されています。
 爾前権経では、「仏」 と 「凡夫」 の間に超えがたい懸隔(けんかく)があります。 凡夫の中のごく一部の修行の達人だけが歴劫修行の果てに仏を目指すことができるのであり、反対に、仏になってから凡夫に戻ることはありえません。
 原則として仏が住む世界もまた、凡夫の住む娑婆世界ではありません。両者の間は、徹底的に隔絶しています。
 「仏界」 と 「九界」 の間に断絶がある限り、万人の成仏は現実の上であり得ません。どこまでも、理想とされる仏とは、人間とかけ離れた存在であり、その仏による救済を願うしか、凡夫がなしうることはありません。
 この九界と仏界の断絶を破ったのが法華経の一念三千の法であり、端的に言えば、「九界即仏界」 「仏界即九界」 の法理です。いかに法華経の十界互具の思想が卓越しているか。
 日蓮大聖人は、唱題行を修業として立てることにより、十界互具という一生成仏の原理を実現する道を開きました。ここにこそ、民衆の成仏を目指す仏教の完成形態があるのです。
  (一生成仏抄講義・50P)

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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