9.11を思う

 9月11日、ニューヨークにて同時多発テロ事件が起きて、早くも10年が経ちます。また、6ヶ月前の3月11日、東日本大震災が起きました。同じ “11日” という日にちの一致に、何か不思議なものを感じます。

 この間の10年、米国はテロ撲滅の名のもと、アフガニスタンとイラクに侵攻し、彼の地の独裁政権を倒したが、多大な混乱と損害を与えることに成ってしまった。また、自国の将兵も1万人以上の犠牲者を出し、経済までも、何やらおかしく成ってきた。
 テロ撲滅が出来たかと言えば、首謀者 ウサマ・ビンラディン容疑者を殺害したが、テロの脅威は一向に減っていません。

 釈尊は 「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みの息(や)むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む」(趣意) と述べています。そもそも、武力をもってテロ撲滅を図ろうとすること自体が間違いなのである。

 御書に 「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず」(1358P) と仰せです。この御文は我々の生命は、「十界互具の当体」 であると説かれています。
 すなわち、怨みという心は、もともと生命に備わっているものであり、仏様でもこれを無くすことは出来ないのです。反対に、極悪人の一念(生命) といえども仏界を具しているのである。

 したがって、日ごろ潜在化している怨みの心は、縁によって顕在化するのであります。ゆえに、武力行使によって子供や親兄弟を殺された極普通の民間人が、テロリストに変身しないとは限りません。ゆえに、テロ根絶のための武力行使が、かえって、テロリストの醸成になるという認識を、持たねばならないと思います。

 「自他の隔意(きゃくい)を立て彼は上慢の四衆・我は不軽と云う、不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」(768P) と仰せです。このご文は、彼は 「悪人」・我は 「善人」 であるというように、差別を立てる見解、差別観に執着する心は 「無明」 であるということです。

 「無明は明らかなること無しと読むなり、我が心の有様を明らかに覚(さと)らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う」(564P) と仰せです。無明とは、自分の生命の法理に暗いということです。これが迷い・混乱・不幸の根本です。

 テロリスト(悪人)と民間人(善人)という二種類の人間が居るのではない。これらのものが、一人の人間の中において共存する、すなわち、「十界互具の生命」 の認識もなく、生命の法則も解からないままで、事を推し量っても、うまくいく訳がありません。

 しかし、善悪、邪正と立ててはいけないという意味ではないのです。善悪、邪正の立て分けがなくなってしまったならば、それは混乱以外の何ものでもない。
 仏法の精神は 「善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」 とありますように、善人も悪人も、邪も正も、ともに “南無妙法蓮華経” を根幹にしたときに、はじめて救われ、社会、人類に、価値を提供していくことが出来るのであります。

 池田先生は、二十世紀は 「戦争の世紀」 であった。二十一世紀こそ 「生命の世紀」 にしなければならない。それには、何があろうと 「殺すなかれ」(不殺生)という大原則を、人類の 「根本の正義」 にしなければならない。
 「自分の主義主張を訴える手段に、暴力を採用してはならない」 という共通思潮を世界に広げ、根づかせていかなければ、人類は 「二十世紀の教訓を、まったく学んでいない」 ことになろう。
 二十一世紀の真の戦いは、文明と文明の戦いでもなければ、いわんや宗教と宗教との戦いでもない。「暴力」 に対する 「非暴力」 の戦いである。それこそが 「野蛮」 に対する 「文明」 の戦いである。
 大悪おこれば、大善きたる。しかし、大善は、ひとりでに来るわけではない。大善をもたらすのは、常に勇気である。
 凡夫の慈悲に代わるものは勇気である。勇気をもって語っていくことが慈悲に通じる(趣意)。
と指導されています。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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