生命を本尊とせよ(その1)(我が身は即大宇宙)

 弘安2年(1279年)10月12日は、“一閻浮提総与の大御本尊” が、建立された意義ある日であります。そこで御本尊について、池田先生のご指導が 『新・人間革命』 にありましたのでご紹介いたします。

 「大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば 『本尊』 であります。『本尊』 とは、『根本として尊敬すべきもの』 です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる 『本尊』 を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
 では、その 『本尊』 の内容とは何か」

 「それは、 『御本尊七箇相承』『汝等が身を以って本尊と為す可し』(富士宗学要集・第一巻) とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』 ということであります」
 「つまり、大聖人の仏法は 『一切の根源は “生命” それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに “人間生命” そのものである』 という哲理であり、思想なのであります」

 伸一は、さらに、 『御本尊七箇相承』「法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」 の文を引き、こう語った。

 「宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』 と 『日蓮という一個の生命体の全要素』 とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
 わが身は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を 『本尊』 として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』 の原点を見いだすものであります」
 伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。

 日蓮大聖人は、 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244P) と仰せになっている。
 また、法華経に説かれた宝塔について、 「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(797P) とも言われている。

 仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
 ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。
  (新・人間革命第19巻・297P)
 (以上でありますが、先生のご指導は続きがありますので、本書をご参照ください)

 根本として尊敬すべきものは生命であり、ゆえに、「人間の生命をもって本尊とせよ」 との池田先生のご指導は、知識としては知っていましたが、今あらためて拝見しますと、また新しい感動が起きてきます。人はややもすれば、ものごとを忘れてしまうものです。ゆえに、日々新たなる前進のためには、師匠の存在が大切であり、学会という善知識の必要性を痛感いたします。

 『開目抄』 に、 「諸宗は本尊にまどえり」(215P) と仰せです。根本の 「本尊」 に迷うが故に、一切が狂っておかしくなる訳です。大聖人は、すでに700年以上前から、三大秘法の大御本尊を顕わされて下さいました。

 『御義口伝』 には、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) 等々と、そこには根本として尊敬すべきものは人間生命であると、数多くのご金言をもってご教授されています。そうであるのに、日蓮門下と名のる者たちでさえ、大聖人のご真意が解からず、誹謗正法の限りを尽くしておるのが現状である。
 そのような中で、法華経を正しく解釈し、大聖人のご真意を解き示して下さったのは、戸田先生・池田先生であり、創価学会であります。まことに有り難く報恩感謝申しあげる次第である。

 いま世界は、地球的規模で天変・争乱・不況などによる混乱の極みにありますが、これを救う哲理は、「生命を本尊 (根本尊敬)」 とする、日蓮仏法の大御本尊以外にはないのである。
 この生命哲理を、人類の共有財産として広宣流布し、世界平和を実現しいくことが、池田門下の使命であると決意するものである。

 追記  コメントがありましたので申し述べさせて頂きます。

 池田先生は、“あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、「人間の生命をもって本尊とせよ」” と述べられています。総別の二義を鑑みてあえて 「総じては」 と、ことわられておるところにご留意ください。
 なにも、無明の・迷いの凡夫の生命を、信心修行の本尊とせよと言っているのではないのです。そこのところを混同してしまうと、 「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055P) と云うことになる訳です。

 総じての立場からの 「本尊とせよ」 の本尊とは、根本として尊敬する最高の価値を、“人間生命” に置くべきであるという哲理・思想を指していると思います。
 世間では、幼児殺しなどが起こるたびに、生命の尊厳が叫ばれますが、どうも、倫理・道徳の次元の話であり、深い哲理・思想性は無いように思われます。
 そこで、生命尊厳の哲理・根本法を、 「一切衆生・悉有(しつう)仏性 (一切衆生に悉(ことごと)く仏性有り)」 と説く 「法華経」 に求めなければなりません。
 池田先生は、“人間の生命に 「仏」 が具わり、「本尊」 であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい” と指導されています。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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