真言密教

 真言宗のことを、密教とも云う。密教とは秘密仏教ということで、真言宗は顕教・密教という二教の経判を立て、大日経は法身の大日如来が説いた真実の秘密の教えである故に 「密教」 という。
 他経の法華経等は応身仏の他受用身の所説の法で、顕わに説かれた浅い教の 「顕教」 であるとの邪義を立てている。しかし、大日経等の真言の三部経は、仏の 「四十余年未顕真実」 の中の経教である。

 日蓮大聖人は、「抑(そもそも)大日の三部を密説と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、所詮真言を密と云うは是の密は隠密(おんみつ)の密なるか微密(みみつ)の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭(こ)むるは微密なり、二には疵(きず)・片輪等を隠すは隠密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成(しじょう)と説く故に長寿を隠し二乗を隔(へだ)つる故に記小(きしょう)為(な)し、此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、微密の密は法華なり」(144P) と。 (記小…二乗作仏) 
 また、「真言の高祖・竜樹菩薩・法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず」(145P) と仰せです。

 そもそも、真言の三部経 (大日経・金剛頂経・蘇悉地経) を密教と云い、その外の法華経等を顕教と云うことは、釈尊の金言・経文には無いのである。自分勝手に称している邪義なのである。
 
 次に密教の密は、隠密(おんみつ) の密なるか、微密(みみつ) の密なるかと問いかけられています。
 「微密」 とは、微妙秘密のことで、微妙、深遠で外からは容易に分からないということで、微密は金銀などを蔵に秘蔵することに譬えられる。故に、微密は法華経を指すのである。

 「隠密」 とは、物事を人に知られないように覆い隠す意味で、疵や欠点を隠し、教説などの文に仏の本意を隠して示さないことを云う。すなわち、真言密教は隠密なのである。
 その訳は、始成正覚を説く故に、寿量品の久遠実成を隠し、二乗を弾呵する故に、記小(二乗作仏) すなわち、成仏の法理である一念三千の理は、説かれて無いのである。この法華経の久遠実成と二乗作仏は、「教法の心髄・文義の綱骨なり」 とまで仰せられています。

 そうであるのに、真言宗は 「理同事勝」 の邪義を構え、有りもしない 「即身成仏」 を、さも有るように大日経などで説いて、衆生を惑わせ・誑(たぶら)かしているだけで、成仏の実質が伴っていない 「有名無実」 の論理なのである。

 密教はインドにおいて、ヒンズー教・バラモン教の神秘主義・呪術的な加持祈祷の作法を取り入れた。その結果、仏教は本来、神秘主義でも呪術主義でもなく、自分自身が修行をして仏果を成ずるという修行法なのに、僧侶や能力者に祈祷して貰って功徳を得させようとする密教は、仏教をはなはだ不合理な、ご都合主義的な、いい加減なものに貶(おとし)めてしまったのである。

 真言宗の説く即身成仏は、手に 「印契」 を結び、口に 「真言」 を唱え、心が三昧に住することで、身口意の三業において、行者と仏が一体になるとしている。しかし、それはあくまでも象徴のレベルに過ぎない。ただ主観的に成仏したと主張しているだけで、客観的・理論的・現実的な裏付けは何もないのである。
 
 そのような真言密教のいう即身成仏は、「神がかり」 などの没我状態と同列の主観的な神秘体験の一種であり、自己の向上と完成を目指し、生命境涯の根本的変革を意味する、仏教本来の 「即身成仏」 とは、似て非なるのもである。

 日蓮大聖人は、「真言師等の所談の即身成仏は譬えば窮人(ぐうにん)の妄(みだ)りに帝王と号して自ら誅滅(ちゅうめつ)を取るが如し、王莽(おうもう)・趙高(ちょうこう)の輩外(ほか)に求む可からず今の真言家なり」(1027P) また、「真言は亡国の悪法」(173p) と厳しく破折なされています。

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谷 建二郎

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