生命を本尊とせよ(その2)(人の本尊・法の本尊)

 「生命を本尊とせよ」 との 「生命」 は、同じ一個の生命体だからといって、なにも犬・畜生の生命をも同列に論じているのではない。あくまでも人間の生命なのである。それは人間だけが法華経を信じ、自身の仏性を顕わすことが出来るからである。

 しかるに、ある種の通力 (能力) に惑わされて、竜神や稲荷大明神などを拝んでいる人がいますが、これらは生命の法理からして、いくら功徳があるからと云っても、蛇や狐狸の類いに帰命すれば三悪道の因になるのである。そのような次第で、人間の生命だからと云っても、何も九界の迷いの衆生の生命を云っているのではないのです。

 本尊とする 「生命」 は、“南無妙法蓮華経” という宇宙根源の一法を即座に悟られた、 「久遠元初の自受用身如来」 すなわち、“日蓮大聖人の御生命” に約すのである。
 『御義口伝』 に、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と仰せです。 「法華経の行者」 とは、別しては “日蓮大聖人” の御事であります。

 しかし一方では 『本尊問答抄』 に、 「此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」(365P)・
 「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」(366P)
 と仰せです。

 ここにきて、「法華経 (法) を本尊とせよ」 と、 他方 「法を覚知した仏 (人) を本尊とせよ」 との両方があって、どちらが正しいのやら迷うところであるが、ともに大聖人の御金言であり、すべて正しいのである。確認のため御書講義録に 『本尊問答抄』 を探したが見当たらなかった。

 そこで 『御義口伝』 を開くと、 「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」(708P) と仰せられています。
 「南無」 すなわち 「帰命」 の対象 (本尊) に、「人」 と 「法」 とがある。
 「人の本尊」 とは、文底の釈尊、即ち “日蓮大聖人” である。 「法の本尊」 とは、末法の法華経・即ち “南無妙法蓮華経” であるということです。
 
 このように、帰命の対象・対境である 「本尊」 を説明しょうとすれば、どうしても 「人」 の本尊と 「法」 の本尊というように、分けて説明しなければ説明の仕様がないし、その方が解かり易いと思います。
 しかし、生命の実相は、「人法体一」 であり、「色心不二」 であります。理論的には、「人」 と 「法」 を分けて考えられても、事実の上では、「人(仏)」 を離れた 「法」 は存在しないのです。

 釈尊の説法に、 「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る」 という言葉があります。 「法」 を悟られている釈尊に会え (帰命すれ) ば、「法」 を悟ることができるということです。
 じっさい、我々には “南無妙法蓮華経” という 「法」 は、なかなか解からない訳です。
 ゆえに、現実的には 「生命を本尊とせよ」 との如く、生命すなわち、「法」 と一体となった 「仏(人)」 を本尊として、信心修行に励んでいる訳です。

 その本尊とは、 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P) と仰せのように、日蓮大聖人の御生命を留められた、 「三大秘法の十界の文字曼荼羅御本尊」 であります。

 人・法についての記事 → ここから 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR