生命を本尊とせよ(その3)(法華経の行者の一身の当体)

 前のブログで、「我々には “南無妙法蓮華経” という “法” は、なかなか解からない訳です」 と述べました。実際、大宇宙と共に本有常住していると云っても、見ることも触ることも出来ず、有るのか無いのかさえ分かりません。

 そこで私は、「南無妙法蓮華経」 を “万有引力の法則”(以下:引力という) に当てはめて考えれば、解かり易く・理解され易いと思いました。

 ご承知のように、「引力」 は大宇宙と共に常に遍満している法であります。宇宙にいつもあると言っても、何処を探しても、人間の五感等では見つかりません。では、無いのかと云えば、例えば地球等のような物体が有れば、瞬時に現われ作用します。物体があれば現われ、物体がなければ作用も現われもしない。
 また、引力が有るところは必ず物体があり、引力が作用しないところには物体も何もないというのである。引力と物体は “相即・一体不二” の関係にあります。
 ゆえに、目に見えない引力を見ようとすれば、それは例えば、木からリンゴ (物体) が落ちるのを見るように、その物体を通してしか、見ることも感ずることもできません。

 この関係性を、仏身上の 「人」 と 「法」 に当てはめて、「引力」 を南無妙法蓮華経の 「法」 に、「物体(リンゴ)」 を妙法を信ずる 「人」 に置き換えてみます。
 そうしますと、即ち “南無妙法蓮華経” という 「法」 は、「人(仏)」 のうえにしか・顕われようのないものです。

 「仏界」 は具体的には、仏の “慈悲・智慧・責任感” 等となって、その人の “振る舞い” のうえに顕われるものなのです。
 日蓮大聖人は、 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せられています。
 ゆえに、南無妙法蓮華経の 「法」 を拝しようとすれば、それは 「仏(人)」 を拝する以外にない訳です。したがって 「仏」 に帰命すれば、その 「法」 を悟ることができるのです。

 池田先生は、 「南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。
 『法』 といっても 『人(仏)』 を離れた法は、『理』 だけの存在です。実際には ―― 『事』 の上では ―― 仏の智慧を離れた法というのはないのです」
  と指導されています。 (法華経の智慧4巻・80P)

 以上のように、この宇宙に実在しているものは、すべて 「人法体一」 なのであります。
 「人」 と 「法」 が別々なもの、言い換えれば、動物などの例えで、肉体と精神が別々なものは、この世には存在しないのである。
 ゆえに、「人」 を離れた 「法」 というものを取り出せば、それは 「理」 だけのものになります。

 したがって、外道の神や爾前・迹門の諸仏・菩薩たちは、生命の永遠性や力量・作用等はよく説かれていますが、それらは事実・実在として 「人」 の上に行ぜられた 「法」 ではありません。ゆえに、これらの神・仏たちは、ただ単なる理論上の・架空の 「夢中の権仏」 といわれる 神や仏・菩薩にしか過ぎません。

 日蓮大聖人は、人間として生を受け、仏法流布の国土に生まれながら、善知識(御本尊)の縁に値(あ)えば成仏できる身であるのに、このような実体のない理論上の仏や神しか 信じない衆生に対して、黙っていられようか と仰せです。
 「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤(うつつ)に還つて生死の紲(きづな)を切る可し 今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり」(575P) と戒められております。

 『御義口伝』 に、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と仰せです。
 法華経の行者、すなわち、“日蓮大聖人の御一身の当体” が、即・御本尊となり、我らはこの御本尊を、ただ ひたすらに信ずることにより、わが身が即ち、 「一念三千・南無妙法蓮華経の当体」 と輝けるのであります。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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