仏法の大転換 

 もう少し 「本因妙の仏法」 について知りたいと思い、池田先生の 『生死一大事血脈抄講義』 を読んでみました。あらためて、先生の御講義はすごいなと思いました。私の感じたところですが、ご紹介したいと思います。

 池田先生は、次のように講義をなされています。
 「さて、本抄で釈迦・多宝から上行に付嘱された法として南無妙法蓮華経を修業すべきことを結論として強調されていることは、さらに甚深の意義を拝することができます。
 それは、この付嘱が、「本果妙の仏から本因妙の仏へ」、そして 「本果妙の仏法から本因妙の仏法へ」 の大転換を意味しているということです。
 すなわち、これは、単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています」
と述べられています。 (講義・188P)

 法華経は、在世の衆生よりも、滅後の衆生、それよりも、より以上に末法の衆生の救済を、目的としていると云われています。それは、法華経の滅後の弘経の方軌を見ればうなずけると思います。

 釈尊は、『法華経見宝塔品第十一』 で、「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏の前(みまえ)に於いて 自ら誓言を説け」 と、このような意味の御言葉を三度も発して、滅後の弘通の誓いの言葉を述べるよう諫めています。これを 「三箇の鳳詔」 と云い、滅後の法華経を持つことの難しさを、「六難九易」 の譬によって示している。
                         六難九易の記事 → ここから

 『提婆達多品第十二』 では、悪人の提婆達多と八歳の竜女(女人) の成仏を述べて、法華経功徳の深重なることを証明して、流通を勧めている。これを 「二箇の諫暁」 と云い、前の三箇と合わせて 「五箇の鳳詔」 と云う。

 『勧持品第十三』 では、「二十行の偈文」 をもって、滅後末法には法華経弘通の行者に 「三類の強敵」 が競い起ることを示しており、日蓮大聖人は、身・口・意の三業をもってこの勧持品を身読され、末法の御本仏としてのご確信に立たれました。
 
 『従地涌出品第十五』 では、迹化の菩薩たちが滅後の弘通を誓うが、しかし、釈尊は、「止みね善男子 汝等が此の経を護持せんことを須(もち)いじ」 とこれを止めた。その時、上行等の四菩薩を唱導の師とする六万恒河沙の菩薩が大地から涌出した。この地涌の菩薩たちを、釈尊は 「我久遠より来(このかた)是れ等の衆を教化せり」 と答えた(略開近顕遠)。弥勒菩薩は更に、釈尊成道より 「始めて四十余年を過ぎたり 世尊 云何ぞ此の少時に於いて 大いに仏事を作したまえる」 と疑問を提した(動執生疑)。この疑いに、回答したのが寿量品である。

 『如来寿量品第十六』 では、釈尊が成道したのは、「我実に成仏してより已来 無量無辺百千万億那由陀劫なり」 と久遠を明かした(広開近顕遠)。また、「我れ成仏してより已来 甚だ大いに久遠なり」 の文を “本果妙” とする。更に 「我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命 今猶未だ尽きず」 と “本因妙” が説かれ、「我れ常に此の娑婆世界に在って説法教化す」 と “本国土妙” が明かされる。この三妙が整足されて、本有常住の十界互具・百界千如・一念三千が明かされた。しかし、文上の寿量品では、釈尊の本因を 「我本行菩薩道」 としか説かれてない。如何なる “法” を修業したのか、それは末法の仏によって明かされるのである。 

 『如来神力品第二十一』 で釈尊は、妙法の当体を、上行菩薩に四句の要法をもって付嘱した。それは 「要を以って之を言わば 如来の一切の所有の法 如来の一切の自在の神力 如来の一切の秘要の藏 如来の一切の甚深の事 皆此の経に於いて宣示顕説す」 の文で、“結要付嘱” という。大聖人は、「日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり」(760P) と仰せられています。

 以上、簡単に付嘱のところを見ましたが、迹化の菩薩に対し三度も呼び掛けていながら、結局、これを制止して、地涌の菩薩に付嘱するわけです。これは、末法に弘通する “法” は、始成正覚の 「本果妙の仏法」 ではなく、これをはるかに超えた久遠元初の 「本因妙の仏法」 でなければならないからです。それは 「本果」 は理想であり、「本因」 こそが現実です。その勝劣をハッキリと解からせるために、あえてこの様な方法をとったものと思われます。

 「付嘱」 という言葉の響きから、どうしても、仏から受ける・授与されるという感じがにじみ出てきます。そこのところを池田先生は、ハッキリと、これは “本果妙の仏から本因妙の仏へ”、“釈迦仏法から日蓮仏法へ” の大転換であると指導されました。

 釈迦仏法の阿弥陀や大日経を持している人々は、惑耳驚心(わくにきょうしん)する (耳を惑わし心を驚かす) ことでしょう。また、日蓮を名乗り、南無妙法蓮華経と唱えていても、身延や日顕宗のごときは、宗祖の教えに違背し、今だに、釈迦仏法の 「本果妙」 の考えに執着して居るのである。

 日蓮大聖人の仏法を、世界192ヶ国まで広宣流布し、その実証を示したのは創価学会です。今や仏法は、創価学会・創価思想の時代であると、声を大にして宣言するものである。 

 追記 : 「本因妙」 について、池田先生のご指導です。
 
 「本果妙」の仏や教えは、ある意味で現実の人間を超えた仏の至高の境涯を指し示すものであり、その境涯がわからない現実の人間にとっては、結局、譬喩としての意味しかないことになります。 ………

 これに対して、「本因妙」 は、究極的な成仏の原因を説きあらわす仏や教法を指します。原因は現実の人間の側にあるがゆえに、「本因妙」 は、現実の人間に即して究極の成仏の因果を説く教えとなります。

 まさしく、釈迦・多宝から付嘱を受けた上行菩薩は、現実の世界に現実の人間として出現する菩薩なのです。

 万人の成仏という法華経の理想を実現するためには、現実の人間として、究極の成仏の因果を自らの生命において実践し、しかも、その因果を成就して末法の人々に説き示し、伝えなければなりません。

 この 「本因妙」 の仏法では、現実の人間が、そのまま究極の成仏の因果を体現していくことが根本条件です。ゆえに、因と果が一個の人間にともに具わるのです。したがって、本因妙の仏法では、「因果俱時の妙法」 を説くことになります。

 大聖人は 「妙覚の釈尊は我らが血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(246P) と言われています。わが生命の骨髄として成仏の因果の功徳を確立すれば、我が血肉が妙覚の仏となって現れるのです。

 現実の人間が妙法を体現することを要件とする 「本因妙の仏法」 においては、仏や教法のあり方は人間の実践を通して示されます。

 そのあり方を 『白米一俵御書』 では、「月こそ心よ・花こそ心よ」(1597P) と表現されています。月や花などの現実の事物が、そのまま仏の心を体現しているという意味です。

 このように、上行菩薩が、現実世界で妙法を体現して本因妙の仏法を弘める存在であることから考えると、釈迦・多宝は 「本果妙の仏」、上行菩薩は 「本因妙の仏」 を意味することになります。

 さらにまた、釈迦・多宝によって象徴される 「本果妙の仏法」 は、因の立場にいる現実の人間にとっては、はるか天空の本果を仰ぎ見るしかない教法です。それに対して、「本因妙の仏法」 では、上行菩薩が先駆けて身をもって体現した 「因果俱時の妙法」 を弘めるのです。

 つまり、本因・本果の名は同じでも、本因と本果がかけ離れたものを説くのか、それとも本因・本果が一体の 「因果俱時の妙法」 を弘めるのか ―― 両者には法の上でも大きな違いがあるのです。

 この 「因果俱時の妙法」 こそ、真実の 「仏種」 です。釈尊も本来は、この 「仏種」 を悟り、成仏の因果を体現して仏になったと言えます。しかし、釈尊の名をもって説かれた多くの教法は、「仏種」 そのものを説かず、本果を指し示す本果妙の仏法にとどまっています。

 法華経の核心は、釈迦・多宝から上行への付嘱を説くことにあります。これは、法華経の理想であり仏の誓願である万人の成仏を実現するには、どうしても未来に、「本果妙」 から 「本因妙」 への大転換がなされるべきであることを予言しているのです。
  (生死一大事血脈抄講義・189~192P)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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