相対種の開会

 『生死一大事血脈抄講義』 の終りの方で、相対種の開会について、講義をなされています。「相対種」 とはあまり聞きなれない用語ですが、本質的に 「煩悩即菩提・生死即涅槃」 と同じことであります。

 『御義口伝』 に、「されば此の品には種相体性の種の字に種類種・相対種の二の開会之れ有り、相対種とは三毒即三徳なり種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経なり種類種なり、十界三千の草木各各なれども只南無妙法蓮華経の一種なり」(795P) と仰せです。

 「相対種の開会」 とは、衆生が本来もっている煩悩・業・苦の三道を、御本尊を受持し、題目を唱えることによって、そのまま法身・般若・解脱の三徳と転じて即身成仏する義である。日蓮仏法は、この相対種の開会を本意としているのです。
 
 衆生の生命は十界互具の当体であるから、十界のあらゆる境界を現わせる可能性はある。しかし、それにも拘わらず、九界を現わすことは出来ても、仏界はなかなか現われません。

 この仏界を現わすための因果の法則に、いわゆる因果応報の 「善因善果・悪因悪果」 の法則があります。すなわち、善い行いをすれば安楽の報いを受け、悪い行いをなせば苦悩の報いを受けると言うものです。これは常の因果の法であります。

 この通常の因果観から脱却できていないのが、権大乗教や小乗教の修行方法であります。このような小乗の修行では、生死を厭い、逃避する姿勢をもたらします。

 池田先生は、次のように指導されています。
 「なぜならば、煩悩を断ずるという修行は、『悪は悪を生む』 という一面的な因果観に基づいているからです。そのような因果観において、悪を断ずる修行といっても絶望的にならざるをえません。

 他方、大乗教では 『煩悩即菩提』『生死即涅槃』 という言葉は説きますが、実際の修行は、歴劫修行などに見られるように果てしない善行を積み重ねるか、絶対的な仏の救済を待つかのどちらかの道で成仏を期するものでした。

 しかし、このような大乗の修行や信仰も、結局は、生死を厭う逃避の姿勢に陥りやすいものです。なぜならば、結局は 『善は善を生む』 という一面的な因果観に立脚しているからです。自力の菩薩行を実践する人は果てしない未来の成仏を期するしかない。他力の信仰を実践する人は、阿弥陀仏などの絶対的な仏の力を借りて娑婆世界から離れた浄土に往生し、そこであらためて 『善は善を生む』 という修行をするしかありません。今の人生における修行の成就は保証されないのです。結局、これらは 『悪は悪を生む』 という因果観の裏返しに過ぎません。

 いずれにしても、煩悩の迷いと生死の苦しみに束縛されている現実の人々にとっては、煩悩と生死から解放された真の歓喜が得られないのは当然のこととして、成仏への確信や希望も持ちようがありません」 (同講義・210P)
 
 
 しかし、日蓮仏法は、より根源的な生命の因果の法則を明かしました。それは、己心に具わる内なる仏界・仏性を開き現わすことによって、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じ、直ちに成仏の果を得ることが出来るという仏法です。
 
 大聖人は 『観心本尊抄』 に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(246P)
 竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」(944P)
 伝教大師の 秀句に云く「能化所化倶に歴劫無く妙法経力即身成仏す」(1258P) と仰せです。

 池田先生は、「生命根源の次元からの変革を説き示したのが、十界具足を説く妙法の因果なのです。今、ここで、どのような境涯であったとしても、各人の生命の奧底には厳然と、最高の智慧にあふれた力強い仏界が具わっている。それを開きあらわせば、あらゆる困難をも乗り越えることができる ―― このことを可能にしたのが、因果倶時の蓮華の法なのです」 (同講義・58P) と指導されています。

 追記 : 「相対種」 について、池田先生のご指導です。
 
 「爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭うて別に菩提涅槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり」(821P)
 では、煩悩・生死と菩提・涅槃とを別物としない考え方とは、どのようなものでしょうか。
 
 大聖人は、富木常忍に与えられた 『始聞仏乗義』 において、凡夫が法華経を修業する真髄は 「相対種」 という考え方にあると言われています。「相対種」 とは、結果(成仏)とは反対のもの(煩悩など)が成仏の原因(種子)になる、という意味です。

 これは、凡夫の成仏の為には、「悪が悪を生む」 という因果観も、「善が善を生む」 という因果観も、いまだ不十分であるということです。悪と善を区別する考え方では、悪の中で生きざるをえない凡夫は、結局、希望を失わざるをえません。 ………

 大聖人が 「相対種」 を強調されたのは、凡夫に真の希望を持たせるためには 「悪が善を生む」 「悪が善に転換する」 という因果観を見極めていくことが大切であると洞察されたからであると拝察されます。

 大聖人は 『始聞仏乗義』 で、この相対種の因果を 「変毒為薬」 と表現されています。優れた医師が毒をも薬として用いるように、凡夫の煩悩・業・苦の三道は、妙法の力で法身・般若・解脱の三徳へと転換できるという法理です。まさに 「煩悩即菩提」 であり 「生死即涅槃」 です。

 さらに、同抄では、この三道即三徳と信じたときに、初めて生死の苦しみを超えることができ、真の意味で法華経を聞いたことになると言われて結ばれている。

 言い換えれば、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」 を心から信じたときに、私たちは苦悩のもととしての生死を超えることができる。そして、そのとき法華経の聞法(聴聞)が真に成り立つということです。

 相対種は 「相対種開会」 ともいい、相対立するものを、より大きな視点から統一して、より広い意味を明らかにすることを言います。「煩悩即菩提」 「生死即涅槃」 というときには、まさに相対立している 「煩悩」 や 「生死」 とは意味が変わっているのです。

 むしろ私たちは、悩みがあることで真剣に御本尊に祈っていくことができます。悩みに真剣に立ち向かっていこうとする一念が、自身の生命に内在する本源的な力をより強く涌現させていく。

 このとき、悩み、すなわち煩悩は、既に菩提へと転ずる因としての煩悩であり、その煩悩の中に実は菩提が含まれているともいえる。言うならば、「自身を苦しめる煩悩」 から、「菩提へと転ずる煩悩」 へと、煩悩自身が質的に転換するのです。

 これを可能にするのが 「因果倶時の妙法」 たる南無妙法蓮華経の力用です。
                   (生死一大事血脈抄講義・211P)
 参考: 『始聞仏乗義』 の御金言です。
 「天台大師の高祖・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不可思議と名づく等云云 …… 即身成仏と申すは此れ是なり」(984P)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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