本門の戒壇 (2)

 「本門の戒壇」 とは、本門の本尊を安置して信心修行に励む場所をいう。この本門の戒壇に、「事の戒壇」 と 「義の戒壇」 があります。

 「事の戒壇」 とは、広宣流布の事相の実現に応じて建立される戒壇である。『三大秘法抄』 に 「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(1022P) と仰せられている戒壇です。

 「義の戒壇」 とは、広宣流布の事相がまだ実現されていない場合の戒壇で、御本尊を安置し信心修行する場であれば、何処であっても・各家庭であっても、戒法及びその功徳において 「事の戒壇」 と全く “同意義” なので 「義の戒壇」 という。

 このように、御本尊が安置されている場所を 「戒壇」 と言うのであれば、御本尊がなければ戒壇は成就しません。そうであるなら、戒壇の意義は御本尊に摂せられて、別にわざわざ “三大秘法の中の一つ秘法” とまで、ことわる程のものでも “ないのではないかなぁ!” と思っていました。

 その後、大白か・何かの本だったと思うが、“御本尊様自体に、三大秘法が具わっている” と書いてあったことを思い出しました。それは、以下のようなことだったと記憶します。すなわち、

 本門の本尊 …… 中央の南無妙法蓮華経・日蓮 在御判。
 本門の題目 …… 左右の十界の衆生の合掌向仏の姿。
 本門の戒壇 …… 御本尊を書き現わしている紙や板そのもの。

 これを読みまして、“あぁ そうであったのか!” という思いに至りました。それまでは御本尊があって、そのうえで御本尊を安置して、はじめて戒壇があると思っていたのが、実はそうではなかったのだ。
 御本尊を書き現わそうとしても、虚空には書けません。紙や板が無ければ、書き現わすことが出来ません。したがって、戒壇(紙や板)があっての御本尊であったのだ、と言うことになります。

 「戒壇」 こそ、御本尊の具現化の 「カギ」 であったのだ。今までの思考を180度、転換しなければならないのだと思いました。

 そうしますと 「戒壇」 とは、その教法の 「実践化・具体化・現実化」 であると言えないでしょうか。どんなに正しい教えがあっても、それが実践され具体化されなければ、何の益にもなりません。実践・実行されて始めて、その価値が生じるものではないでしょうか。

 そのように考えますと、「本門の戒壇」 には、三大秘法にふさわしい甚深の意義が、在るのだということが、自分なりに少しづつ解ってきました。

 この 「本門の戒壇」 の功徳について、大聖人は 「此の砌(みぎり)に望まん輩は無始の罪障忽(たちまち)に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」(1578P) と仰せです。

 すなわち、我らが御本尊を受持し唱題修行する場所(戒壇)は、根本悪である “無始の罪障” を滅する処であり、三徳(法身・般若・解脱)の仏界涌現(成仏)の大功徳が成ずるのであります。 

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR