我身一人の日記文書

 前に、生命について間違った考え方である 「断見と常見」 ということについて、池田先生の 『生死一大事血脈抄講義』 を参考にして述べてみました。
 
 断見と常見の記事 → ここから

 そのとき、では、正しい生命観とは何であるか、法華経ではどう説いておるのか、等々のことを、合わせて述べて見なければ、片手落ちになるのではないかと思いました。

 しかし、生命論を書くことは、私にとって非常に難しいのである。それはいまだ、生命というものが解かっていないからである。自分自身が理解してなくて、それを書いたり・しゃべったりしても、それを読んだり・聞いたりした人は、ますます解からなくなって理解し得ないのである。

 であるけれども、それを畏れていては何も先に進まない。何よりも、自分自身の研鑚のためには、ただ読むことだけより、そのうえに書いて見る方が、より理解は深まると思うからである。

 事実、同じところを何回も繰り返し読むことも多く、それでも年の所為か、すぐ忘れてしまうことが多い。前の分を開いて見て、“あれ-こんなことも書いていたのかなぁ!”と思うことも良くあることである。
 それでいて記憶に残らなくても、読んだという行為は善業となって、わが生命に刻まれているのであると思い、心なぐさめているのが実情である。

 『総勘文抄』 に、「此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(563P) と述べられています。

 「我身一人の日記文書なり」 と、すなわち、一代聖教は、我身一人の人間の生命のありようを説き明かしたものである。ゆえに、わが身の本体をよくよく知るべきであると仰せられている。この自身の本体を悟り究めた人が 「仏」 であり、これに迷うのを 「衆生」 というのである。

 総じて “八万四千の法蔵” といえば、今までの私が “ブログ” で書いてきたことも、取りも直さず生命論であったと言えると思います。
 そのように考えれば、肩ひじ張ることもなく、少しは気が楽になると言うものです。これからも、御書と池田先生のご指導を根本にして、学んで参りたいと思います。

 『諸法実相抄』 に曰く、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへ(絶)なば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(1361P) と。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

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八万四千法蔵

日蓮上人が32歳まで沢山の寺を訪ねあらゆる経文を読み法華経こそが教主釈尊の究極の教えであると発見、その経文の数が八万四千巻なのでしょうか?

Re: 八万四千法蔵

> 日蓮上人が32歳まで沢山の寺を訪ねあらゆる経文を読み法華経こそが教主釈尊の究極の教えであると発見、その経文の数が八万四千巻なのでしょうか?

 八万四千というのは、“数が多い”ということであって、必ずしも経文の数を指しているのではありません。
 大聖人は、“あらゆる経文を読み法華経こそが教主釈尊の究極の教えであると発見”したのではありません。
 先哲の教えを信じ、法華経が最第一であることは、既に知っていました。
 すなわち、天台大師は、一切経の内容を精査して、五時八教の判釈をもって、法華最第一と決しています。
 伝教大師は、南都六宗の碩徳と公場対決を行い、これを打ち破り、事相の上で法華最第一を証しています。既に、判っていることは素直に信じ、これを利用すれば良いのです。
 
 大聖人は、弘法や法然の書、歴史書その他多数の書籍を研鑚なされております。これらは諸宗を破折し、民衆を救わんがためのものであります。研鑚の趣旨がおのずから違っています。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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