質問に答えて (3)

 (3)日蓮仏法の 「本尊」 は3つで1つについてです。
御書1337P 「生死一大事血脈抄」 前から2行目
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」
大聖人が 「この3つは全く差別なし」 というわれている、「久遠実成の釈尊」、「皆成仏道の法華経」、「我等衆生」ですが、具体的に何と何と何は3つ全く差別ないのでしょうか?

 
 [これは法体と修行とは、分けて考えなければならないと言うことです]―→ (コメント直後の私の回答です。そうしますと、直ぐに返事がきました)
 ⇒分けて考えるのではありません、3つ全く差別ありません。上記の通りです。 

 (では、この点について述べさせて貰います)
  そもそも 『生死一大事血脈抄』 の 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと) りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(1337P) の御文は、「血脈」 という信心修行に関することを述べられた御金言であります。

 この御文には 「御本尊」 のことについては、なにも論じられていません。ただ御本尊の名目を示して、わが身が御本尊と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱え奉るところに、成仏の 「血脈」 が流れると述べられています。

 このように、成仏のための “信心の姿勢、心構え、修行” について、指導されている御文の中の 「三つ全く差別無し」 の一文を取り上げて、「我等衆生」 と 「御本尊(法体)」 とが、同じだと一体化視するなんて、無茶な論法である。
 ゆえに、はじめに 「法体と修行」 とは、分けて考えなければならないと申し上げた訳である。

 いくら 「生仏一如」 だから、“衆生も仏も、その本体は同じである” と言っても、それはあくまで、「理」 の・理論上の話であって、「事」 の・事実の上では、明昧(みょうまい) の差別があるのである。 昧は暗いという意で、無明・九界の凡夫に譬える。

 しかるに、仏の悟りの心(法性) と我等衆生の迷いの心(無明) とを、ごっちゃ混ぜにして、それがそのまま 「御本尊」 であるというのは、御書のどこの御文証にあるのか、また先生の御指導のどこにあるのか、明示してください。
 したがって、“本尊は3つで1つです” と言われるのは、何か勘違いされているようですので、よく目を開いて見てもらいたいと思います。

 また 「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(869P) と仰せです。

 したがって、あえて上記の御文の3つを、「本・迹」 に分ければ、皆成仏道の御本尊・南無妙法蓮華経は 「本」、唱え奉る我等衆生は 「迹」 となります。
 教学を学ぶと言うことは、ある一面から言えば、事理・本迹等の勝劣を学び知ることであると思います。

 日蓮大聖人は、「而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり」(996P) と、厳しく御遺誡なされています。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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