質問に答えて (4)

 (4)なぜ 「自分自身が仏」 であり 「自分自身が妙法の当体」 なのでしょうか?本当に自分は仏なのでしょうか?
  
 [これは妙法は能生の根源であるからです。それを悟るを仏という] ―→ (私のコメント欄の回答です)
 ⇒悟るのではありません。自身の中にある 「生命」 を 「仏」 といいます。法華経の智慧1巻28Pから先生が書かれております。
 
 「⇒悟るのではありません」 のご返事をみて、おやっと意外な思いになりました。それは仏教は、悟りの宗教と言われているからです。悟るのでないのなら、仏道修行は不要になります。「自分自身が妙法の当体」 なのだと覚知・悟るために、日々唱題し学会活動に励んでいるのではないでしょうか。

 「妙法の当体」 についてであるが、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」(1339P)
 金錍論に云く 「乃(すなわ)ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」(239P)
 と仰せです。

 これ等の御金言は、人間だけでなくあらゆる実在するものは、中道実相・悉く本有常住の三因仏性を具足しており、非情の草木・瓦石の類いであっても、有情と同じく色心・因果を具足していて成仏するのである。

 『当体義抄』 に 「十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(510P) と仰せです。

 十界とは、地獄界から仏界までの十種の生命活動である。依正とは、依報と正報のことである。
 正法とは、主観的な立場、自己自身の生命である。
 依報とは、正報の拠りどころとなる非情の草木・国土、即ち環境世界である。

 一切の生命・事物の姿には、この依報・正報があり、しかも 「依正不二」 と言って、この二つは切っても切れない、一体不二の関係にある。依正とは、言わば 「生命」 と約することができるのである。
 
 この依正即ち一切の事物は、“南無妙法蓮華経” という 「法」 によって、動かされ成り立っているのである。ゆえに、妙法のことを 「能生の根源」・「根源の種子」・「根源の一法」 等々、称しているのである。

 このように 「妙法蓮華の当体なり」 と言っても、これはあくまでも、理の上の法相なのである。事の上・実際上では、『当体義抄』 に 「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(512P) と仰せのように、“南無妙法蓮華経” と唱えた者のみが、真実の妙法蓮華の当体となり、仏界を湧現することができるのである。
 したがって、ただ自身の頭だけで理解するのと、生命の底から感得し・悟るのとでは、天地雲泥の差があるのである。

 「これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり」(1504P) と仰せのように、仏とは、悟って仏界の境界を開いた人なのである。それには、仏道修行が絶対不可欠なのであります。
 
 「⇒悟るのではありません」 となりますと、いまだ悟ってない凡夫の無明の心を、そのまま 「仏」 であると言うことになります。これは、平安中期の天台本覚思想と同じことになります。

 「天台本覚思想」 とは、人間の本性は一念三千の当体で 「仏」 そのものなのであるから、成仏を目指しての修行は何ら必要としないのである。現実をすべてありのままに受け入れ、変革の努力を放棄したところに、天台本覚思想としての堕落の面をみることができる。
 
 現実の絶対肯定の思想である本覚思想は、人間だけでなく非情の草木や国土にいたるまで一切の存在が、本来成仏の相を示しているとされた。刻々と生滅の変化を遂げるこの現実の姿こそが、永遠普遍の真理そのものとなるのである。それゆえに、国土が災害や社会悪によって地獄のような悲惨な様相を呈していたとしても、仏の目でみるとき、そこは浄土以外の何ものでもないとされたのである。

 当時の地獄絵図のような社会にあって、いわゆる鎌倉新仏教が誕生した。浄土宗の法然は来世の往生に救いを求めた。大聖人は死後の極楽往生を切望する念仏者を批判し、法華経の 「娑婆即寂光」 の理念に基づき、あくまで現実の娑婆世界に仏国土を築かねばならないとした。

 それにはまず、災難の起こる根本の因を邪法である法然の念仏によると喝破し(破邪)、釈尊の正法である法華経(文底独一本門)を立て(立正)、国土・社会を安穏ならしめん(安国) となされました。
 これに対して、天台本覚思想は現状肯定であり、念仏は現状逃避である。共に変革の哲理とはなり得ないのである。

 日蓮大聖人の “三大秘法の南無妙法蓮華経” こそ、現今の混迷せる国土・社会を救済することができる大仏法なのである。
 『立正安国論』 に云く 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞(ことば)此の言(ことば)信ず可く崇む可し」(32P) と。

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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