自殺について

 『二十一世紀への対話』 の序文には、「両著者におけるそうした宗教的、文化的背景の違いを考えると、むしろ二人の間で交わされた対話には、それぞれの人生観、目的観に、驚くほどの合致がみられるのである。…… そして相違点は比較的わずかである」 とあります。
 その相違点なるものについて、かつて、男子部の指導会だったと思うが、それは 「自殺」 についてであると聞いたことを思い出しました。そこで、“自殺と安楽死” のページを開いてみました。

 トインビー  ただし、寿命はまだあっても、もはや希望はない、という場合もあります。 そのような場合、その人が正気を保っているかぎり、私は、当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます。 このような状況にある人が、もしも安楽死を願うのなら、私は、その願いはかなえてあげるべきだと思います。 また、その人が自殺を選ぶというのなら、それも決してひきとめるべきではない、と断固主張したいのです。
 
 池田  北伝仏教では、あらゆる人間の生命は尊極なる至宝 ――すなわち、仏界あるいは仏性―― を内包した宝器であると説いています。 生命は、いかなる等価物も持たないという意味でも尊厳ですが、そればかりではありません。 生命には仏界が潜在しているが故に尊厳なのです。 仏界とは、宇宙と生命の究極の実相を究めた知恵、および宇宙生命と自己の生命の一体性を覚知したところから湧きいずる無限の生命力をそなえた実在であり、真実の幸福を築く源泉となるものです。
 結局、北伝仏教の教義のなかには、自殺や安楽死を直接禁じている言葉は見当たらないにしても、それは許してはいないと考えられます。

 …… 仏教は、過去・現在・未来の三世にわたる生命の連続を前提とし、それにしたがって人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。 苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです。 この業そのものは、その人自身の力で転換する以外にありません。 このように考えれば、仏教には、安楽死を正当化する根拠は何もありません。 また、自殺についても、生命は宝器であるという理由から、認めることはできません。
 ただし、もとより生命が連続するかどうかということ自体、客観的に証明することができませんから、それを前提とした、 安楽死や自殺をどう考えるかということも、一つの “信念” の問題になります。 しかし、人間生命が尊極で、かけがえのないものと考える以上、私は、故意に生命を縮めることは許されないと信ずるのです。
 

 先生は “苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです” と述べられています。
 
 『総勘文抄』 に、 「本覚の寤(うつつ)を以て我が心性を糾(ただ)せば生ず可き始めも無きをが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火(ごうか)にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭(きゅうせん)にも射られず芥子(けし)の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭(せま)からず」(563P) とあります。

 私は初めて 「劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず」 の文に接した時、“ありゃ,これはなんじゃろか!” と思いました。普通、我われが死というものを考える場合、自身の肉体の消滅を伴なうわけです。それなのに 「劫火にも焼けず……」 と言われても、なかなか得心がいかず不思議な感じがしました。
 しかし、仏の本覚の寤(悟り) をもって捉えると、我が心性(生命)は 「生」 も 「死」 もなく、既に生死を離れているのが真実の姿なのである。したがって、たとえ我が身を殺しても無に帰することではなく、その苦しみや業は続くのである。
 さらに、先生は次のように述べられています。

 池田  私は、博士の主張された 「人間は自殺する権利をもつ」 ということを否定するものではありません。 ただし、その 「自らの生を終える」 ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います。

 知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。 知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです。 それが生命の尊厳を守り、尊厳性を現実化する道であると考えます。
 したがって、知性や理性、感情には、全体的生命を破壊したり、その持続を終息させる瞬間を決定する権利はないといわざるをえません。 全体的生命のみが、その生の終焉(しゅうえん)を決定する権利をもつといえましょう。 …… それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです。

 知性や理性、感情が、生命のより崇高な発現のために、正義、勇気、慈愛をめざしていくべきであるのは、当然のことです。 その理想の追求のために、全体的生命を危険に陥らせることがあったとしても、それは認められなければならないと思います。 むしろ、自己保身のために正義を曲げたり、臆病になったり、他の人を犠牲にすることは、その人の生命の尊厳性を傷つけることでしかありません。 この点、仏教でも、法の正義を守るため、利他のためには、自らの生命を惜しんではならないと教えています。
  (二十一世紀への対話上・320~334P・抜粋)

 わが国では、毎年・3万人以上の自殺者が出ているそうである。これは先進諸国の中では、ダントツの一位である。いろいろ防止策は講じられておるようであるが、根本的には、その人自身の人生観・生命観に帰結するものと思います。

 大聖人は、 「念仏宗と申すは亡国の悪法なり、…… 善導と申す愚癡(ぐち)の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と念仏宗を破折されています。
 
 “オウム” を信じた者たちは、殺人者に仕立て上げられたのである。いかに間違った宗教・思想が、諸悪の・不幸の根源であるのか、お解かり頂けたであろうと思います。しかし、一般の方々は無関心なる故なのか、このことを知ろうともしないのである。
 『開目抄』 に、 「結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(200P) との大聖人の御意を体して、妙法弘通に励むのみである。 

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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