「希望の源泉」(18)(核兵器は「絶対悪」)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 18回は、「民衆という視座」 から世界を 平等に見る思想 であります。
 引き続き 「化城喩品」 の章です。  (第三文明・2018/1月・53P)

 国難の時代に脚光を浴びる日蓮思想
 はじめに対談者は、東アジアは今、「乱世」 や 「国難」 という状況にあると。日本では歴史上、国難の時代には日蓮思想がクローズアップされてきましたと。

 佐藤 優  とても重要な指摘です。 …… 北朝鮮問題を乗り越えるための智慧も、日蓮思想、池田思想のなかに厳然とあると思いますから。
 今の話で思い出しましたが、最近、『かくて神風は吹く』 という戦時中の国策映画を観(み)る機会がありました。 ……
 池田思想では、日蓮思想は救国の思想であるとともに、世界平和に結びつく思想であると捉えます。 日蓮の智慧をその方向に “正しく用いる” ためにも、池田思想の研究は重要です、
と語られています。

 じつは私は、国民学校 3年生の時、『かくて神風は吹く』 という映画を学校から観に行かされました。題名は覚えていましたが、俳優やストーリーなどは全然覚えていません。ただ、暴風雨の場面はかすかに覚えています。場内は超満員で席もなく、スクリーンの前の所でしゃがみ込んで観て、頭はガンガン・クラクラ、吐き気までも催して、散々な目に遭いました。もう スクリーンの間近では絶対に見ないぞ、と思ったことを覚えています。
 創価教育学会を弾圧するという大謗法を犯した軍部政権国家に、神風なぞ吹く訳はないのである。
 元寇の時の神風について、大聖人は 「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且(しばら)く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり」(919P) と仰せです。
 大聖人が、厳然と控えられ・大慈悲を賜わったから救われたのである。“はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり” の御金言を蔑ろにし、国家神道という小法・邪法を信じた我が国は、亡国という仏罰を受けたのである。

 「原水爆禁止宣言」 の先駆性
 戸田先生の 「原水爆禁止宣言」(1957年) から 60周年の佳節を迎え、本年度の ノーベル平和賞を、S G I も参加している 「I C A N」(核兵器廃絶国際キャンペーン) が受賞し、国際的にも関心が高まりました。佐藤氏は次のように語っています。

 佐藤  「原水爆禁止宣言」 は、創価学会史における重要事項であるにとどまらず、日本史的、ひいては世界史的にも重要な出来事であったと思います。 なぜなら、あの宣言によって、核兵器を廃絶していこうとする新しい歴史の流れが世界に生まれたからです。
 原水爆禁止宣言には、他の反核 マニフェストとは異なる重要な特徴が二つあります。
 一つは、次代を担う青年たちに、“核兵器は絶対悪であるとの思想を世界のに広げることが君たちの使命だ” と訴えた宣言だということ。
 もう一つは、広宣流布を目指す活動の一環であったということ。 つまり、単なる政治運動としての反核ではなく、創価学会員の日々の信仰の闘い一部であった点が、大きな特徴なのです。 北朝鮮の核危機が深刻化する今、イデオロギーの枠を超えて “核兵器への絶対的反対” を訴えた原水爆禁止宣言の先駆性・重要性は、いっそう高まっています。


 被爆者のサーローさんが、ノーベル平和賞の受賞演説で 「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です」 と宣言しました。
 戸田先生の 「原水爆禁止宣言」 から 60年もたって、やっと世界の大部分の国が 「核兵器禁止条約」 に賛成した。しかし、核兵器保有国やその傘の下にある日本などは反対した。
 唯一の被爆国である我が国は、核廃絶のリーダーたる資格と責任と使命があると思うものであるが、国の指導者たちは、核廃絶への リーダーシップを執る気概もなく、必要悪の思考のままとは情けない限りである。

 民衆の視点から北朝鮮を見ることの大切さ
 佐藤  池田会長の思想は、「民衆こそ王者」 と捉え、常に民衆の視点から歴史や世界を見る民衆史観です。 そして、「民衆こそ王者」 は世界のどの国にも適用できる普遍的原理であるはずで、それは北朝鮮についてもしかりなのです。 独裁国家であっても、やはり 「民衆こそ王者」 なのであり、独裁者といえども、民衆の意向を完全に無視して行動できるわけではありません。
 そして、池田会長の 「人間革命」 の思想は北朝鮮の民衆にも当然適用可能ですから、学会員の皆さんには、ぜひ 「一日も早く、北朝鮮に広宣流布できる日が来ますように」 と祈っていただきたいと思うのです。


 佐藤氏は、太平洋戦争末期の国策映画 『かくて神風は吹く』 をなぜ観たかといえば、「現時点での北朝鮮の民衆の感覚を理解する ヒントが、そこにある」 と考えたからですと語っています。
 北朝鮮は金正恩(キム・ジョンウン)委員長のもと、一糸乱れず堂々とした姿を見せ、海外メディアに対しては勇ましいことを言っているが、一歩中を見れば経済制裁を受け、民衆の生活は困窮しているようだ。ちょうど、戦時中の日本と同じように、苦しんでいる民衆が沢山いることは、紛れもない事実である。

 池田先生は、大通智勝仏が出現知る前は、衆生は苦悩し、時代は行き詰まっていた。 経文では、その閉塞状況を 「冥(くら)きより冥きに入(い)って」(法華経・316P) と表現している。 人々は闇から闇へという悪の流転を止める仏の出現を生命の奥底では求めていた。 その心が表されています。
 戸田先生もよく 「商売でも何でも、民衆が求めているものが広まるのです。 広宣流布も民衆が今、妙法を求めているから、必ずできるのです」 と言われていた。
 (法華経の智慧2巻・165P)

 今の北朝鮮の危機的状況を考えると、近い将来には北朝鮮にも、広宣流布する時代が必ずやって来るという大確信をもって、今は原水爆が一発でも地球上に落とさせないようにと、しっかり お題目をあげましょう。
 戸田先生のお歌を、思い出しました。  

    雲の井に 月こそ見んと 願いてし
        アジアの民に 日(ひかり)をぞ送らん


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「希望の源泉」(17)(「難」との向き合い方)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 17回は、「難」 との向き合い方に表れる 池田思想の卓越性 であります。
 今回も 「化城喩品」 の章の続きです。  (第三文明・2017/12月・53P)

 真の教育には師弟関係が不可欠
 いま、あらゆる知識が ネットで得られる時代になっても、多くの人が教授との師弟関係を求めて入学してきます。それは学生にとって、単に知識の伝授だけでなく、人格形成にとって絶対必要なことであるからです。
 法華経では、師弟関係の重要性がくり返し強調されています。この点について、対談者は次のように述べています。
 ――  仏道修行には師弟という人間関係のなかで得られる 「生命的感化」 が不可欠だからと思います。 日々の勤行・唱題で御本尊を拝すること、御書を学ぶことはもちろん重要ですが、御本尊も御書も物質ですから、当たり前ですが何か言葉をかけてくれるわけではありません。 だからこそ、池田会長という生身の師の言葉を通した 「生命的感化」 が、死活的に重要なのです。

 創価学会の組織をけん引している力は、世間的な単なる リーダーシップとは違うのである。そこには「師弟関係」 が介在し、池田先生との 「生命的感化」 があるのであります。
 生命的感化とは、妙法の “仏界の生命による感化” とでも 言えるのではないかと思います。
 たとえば、幼き子を連れて はるばる佐渡まで訪ねた 日妙聖人、八十歳を超える老齢の身で 三回も身延に登山した 阿仏房、お二人のお姿を想像していただければ、ご理解いただけるのではないかと思います。

 あえて 「戦術的退却」 を選ぶ勇気
 広宣流布の途上には、「三障四魔」 「三類の強敵」 が競い起こるのである。創価学会の歴史においても、それぞれ大きな難を受け、それを乗り越えてきました。この難について、佐藤氏は次のように述べています。
 佐藤 勝  池田会長の歩みを詳しく見ていくと、要所要所に 「二段階の勝利」 があるのです。最初に難が訪れたときには戦術的退却を選び、数年後ないし数十年後に逆転勝利する。   
 たとえば、池田会長が無実の罪で選挙違反に問われて逮捕された 「大阪事件」 では、戸田会長を守るために、若き日の池田会長は罪を認めたかのような供述をし、その後の裁判で見事に無罪を勝ち取りました。
 また、第一次宗門事件では、表面上、宗門に謝罪する形で戦術的退却をしたものの、第二次宗門事件では宗門に完全勝利しました。 いずれのケースでも、最初に難が訪れたときに池田会長が戦術的退却を選ばず、突っ張り続けていたなら、創価学会は致命的打撃を受けていたでしょう。……
 池田会長は、そうした必要な時に戦術的退却ができる。 それは、最終的な勝利に対する確信がなければできないことです。 また、“自分にはすべての創価学会員を幸福に導く責任がある” という強烈な責任感が源となって智慧を湧かせるからこそ、戦術的退却ができるのでしょう。
 さらに敷衍(ふえん)して言うならば、大きな難が訪れたときに池田会長が決して玉砕(ぎょくさい)しょうとしなかったことと、現在の創価学会の 「与党化」 はパラレル(並列的)な関係にあります。


 佐藤氏は、世界宗教の大きな特徴は 「与党化」 にあると。それは 「反体制にならず、体制内改革を進めていく」 ためであると語っています。
 かつて、全学連の闘士が、いくら デモや反対集会で正義を叫び活動に励んだが、後から見たら何も変わってなかったと言っていた。このように反体制側からでは構造改革なぞ何も出来ないのである。ゆえに、暴力による革命に走りがちになる。
 創価学会は国家権力の側に同志を送り込み、数十年を費やして、体制の内側から日本という国の構造を改革する道を選んだのです。
 このように与党化の道を選ぶことは、非暴力の体制内改革で、平和な文化国家の建設を目指しています。これは、社会に対する強い責任をも引き受けることになるのであります。

 法華経では手段がそのまま目的となる
 「化城喩品」 のなかで説かれる 「化城宝処の譬え」 は、大要、次のような譬えです。
 ――  宝のある場所(宝処)を目指して砂漠を旅する隊商を、一人の導師が導いていく。 しかし、その途中で人々は疲労困憊(こんぱい)の極に達し、一歩も進むことができなくなります。 そのことを哀れんだ導師が、神通力によって幻の城(化城)を人々に見せ、その城のなかで休息を取らせます。 そして、人びとが十分に休息を取ったことを確認した導師は、幻の城を消し去り、「真の目標である宝処は近い」 と説く……。 この話のなかの 「幻の城」 は、仏が衆生を導くために説いてきた三乗の方便の教えを指し、「宝処」 は衆生が最終的に目指すべき一仏乗――仏の無上の悟りを指しています。

 一般的な解釈では、方便の教えは去年の カレンダーのようなもので、一仏乗(法華経)が明かされた後では無意味である、という捉え方になります。
 しかし、『御義口伝』 では、「化とは色法なり・城とは心法なり、此の色心の二法を無常と説くは権教の心なり・法華経の意(こころ)は無常を常住と説くなり、化城即宝処なり」(732P) と仰せです。
 法華経の真意は、無常の幻と思っていた化城が、実はそのまま宝処であると説くのである。

 佐藤  『法華経の智慧』 のなかでは、そのことが次のように解釈されていますね。
 「化城を方便、宝処を真実として別々に捉えた場合、方便は手段、真実は目的ですから、手段によって目的に到達するという発想になります。 それに対して 『化城即宝処』 ととらえる場合は、手段のなかに目的が含まれているということになります」

 「仏界を目的とするならば、九界はそれまでの過程となる。 しかし 『九界を脱却して仏に至る』 という発想では、九界と仏界は相いれないものとなり、九界即仏界にならない。 (中略) 法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。 化城即宝処なのです。
 その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的である。 つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。 仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです」
 (法華経の智慧2巻・177P)

 これは、前の 「授記品」 の章で、先生が “仏が歩んだのと同じ 「軌道」 を歩み続けること自体が成仏なのです” と論じたことと、同趣旨のものであると思います。

 佐藤  今引用した一節が、世の中の一部にある 「目的が正しければ、手段は間違ってもよい」 「目的を達するためなら手段を選ばない」 という発想に対する根源的批判でもあるということです。
 日本には、「革命という目的のためなら、暴力を使うことも、デマ宣伝を用いることも辞さない」 と考える政治勢力があります。 つまり、「目的さえ正しければ、そこに達するまでの過程における手段は、間違っていても汚れていても構わないのだ」 という危険思想です。 しかし私は、課程や手段が間違っていたなら、そもそも目的も正しくないのだと思います。 過程において暴力や ウソを平気で用いる組織や人間は、彼らが 「正しい」 と喧伝している目的も、実は間違っているのです。


 上記の危険思想を持つ政治勢力とは、日本共産党のことだと思います。
 ソ連邦が崩壊し、マルクス・レーニン主義は破綻してしまった。すでに西欧先進諸国では、共産党という名の政党は消滅して、一つもないとのことである。
 しかるに、日本共産党は、いまだに暴力による共産主義革命を夢想している。それ故に、党名も綱領も変えてなく、ソ連東欧型の共産主義と完全に決別していないのである。ゆえに、暴力やウソの プロパガンダ(宣伝)などを平気で用いている。
 先の都議会で、私立高校の授業料実質無料化は、公明党が強く要望して小池知事に実現させたものである。それを、あたかも共産党の実績であると言うのだから、開いた口がふさがらない。
 かつて、石原都知事が 「他人の獲物を横からさらう。“ハイエナ” という下劣なケモノと、よく似ている」 と議会答弁をしたことは有名な話である。

 佐藤  創価学会と日蓮仏法、ひいては池田会長の思想は、「目的を達するためなら手段を選ばない」 などという発想とは相いれないということですね。
 過程・手段がそのまま目的となる、という考え方――。 それは 「九界即仏界」 「方便即真実」 という法華経の法理から必然的に導き出されたものであるとしても、結果的に、創価学会が 「目的のためなら手段を選ばない」 とする危険思想に陥(おちい)ることを防いでいますね。 だからこそ、無政府主義にも国家主義にも陥らず、中道を行くことができる。 学会でいう 「人間革命」 が暴力に結びつくことは決してないのです。
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「希望の源泉」(16)(仏法の師弟観)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 16回は、創価学会における 「師弟の絆」 を考察する であります。
 今回は 「授記品」 の章の残りと、次の 「化城喩品」 の章です。  (第三文明・2017/11月・53P)

 絶対的幸福への レール
 「授記品」 の章の メインテーマは 「成仏」 です。「授記」 とは、「あなたは未来の必ず成仏できる」 という保証の言葉を、仏が弟子に授けることを意味しています。
 佐藤 勝  池田会長は次のように述べています。
 「端的に言えば、成仏とは、一つの 『ゴール』 に至ることということよりも、絶えず仏界を強め続けていく 『無成道の軌道』 に入ることなのです。
 法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。 それで、『遠い未来に成仏する』 という授記になる。 しかし、その本意は、『仏と同じ道を歩ませること』 にあるのです。 仏が歩んだ 『生命の軌道』 『絶対的幸福への レール』 に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。
 『色相荘厳の仏に成る』 という爾前迹門の成仏ではない。 仏が歩んだのと同じ 『軌道』 を歩み続けること自体が成仏なのです」
 (法華経の智慧2巻・120~121P)
 そのような池田会長の、ひいては創価学会の成仏観を知れば、一部の人々が言う 「創価学会は “池田本仏論” だからけしからん」 などという批判は的外れであることがわかります。 成仏が 「『無上道の軌道』 に入ること」 である以上、池田会長も当然その軌道に入っておられるわけで、成仏を約束された身であると捉(とら)えても、本来何の問題もないはずです。 
 
 仏と同じ 「軌道」 を行くとは、法華経を 「受持」 することです。 神力品には 「我が滅度の後に於て・応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定(けつじょう)して疑有る事無けん」(384P) とあります。
 御本尊を受持する学会員は、「仏道」 を間違いなく歩んでいる。ゆえに、その人の成仏は疑いないのであります。
 上記のような成仏観からすれば、池田先生のみが仏であるとする “池田本仏論” なる批判は、もともと成り立たないのである。
 
 佐藤  それから、私が強い印象を受けたのは、池田会長が 「授記」 の持つ意味について、次のように述べている部分です。
 「元来、授記とは、明快な答えを述べ、人びとの心の疑いを解決することだね。
 リーダーは常に 「明快」 でなければならない。 あいまいは悪です。 人々に不安を与えるからです。 『確信をあたえる』 のが 『授記』 の ポイントです」
 (同書・125P)
 この一節のとおり、池田会長の言葉、ひいては創価学会で用いられる言葉は、常に明快であいまいさがありません。 その明快さの根底には、人びとに不安を与えず、確信と希望を与えようという意図があるのですね。

 対談者も “人々の苦しみを取り除くことが最優先事項であるからこそ、「宇宙は有限であるか、無限であるか?」 などという形而上(けいじじょう)的な問題、観念的な問題はあまり扱わないのです” と語れれている。
 要は、民衆救済とはあまり関係がない、教義のための教義ではなく、現実の問題・苦悩を解決するための学会の教義である。だからこそ、常に明快であります。

 師弟は同じ目的に向かって前進し続ける
 ここから 「化城喩品第七」 の章に入ります。 この章では、創価学会の最重要概念の一つ 「師弟」 について論じられています。
 池田会長は、師弟について次のように述べています。
 「仏法の師弟は 『広宣流布へ』 『仏国土へ』 という 『同じ目的』 に向かって進む同志であり、先輩・後輩の関係の延長線上にある。 両者が相対(あいたい)し、向かい合った形だけではなく、根底では同じ方向を向いた関係にあるのです」 (同書・171P)

 佐藤  師匠といっても ゴールのところにとどまっている存在ではなく、弟子たちと同じ軌道のなかにあって、共に前進を続ける存在なのですね。 ……
 それはたとえば、師弟が電車の座席に向かい合って座っているけど、その電車は目的地に向かって前進を続けている、というようなイメージでしょうか? 師と弟子は主観的には向かい合っているが、外から客観的に見れば目的に向かう軌道の中を進み続けている、と。 何だか、アインシュタインの 「相対性理論」 みたいな話ですが(笑)。


 対談者も、面白いですね。法華経の師弟関係が静的・固定的なものではなく、、動的で生成的なものである等と語っています。
 戸田先生は、ご自身が受けられた法華経の難(=二年間の投獄)について、「化城喩品」 の一節をふまえて、次のように述べられています。
 『在在諸仏土 常与師俱生』。 俱生(ぐしょう)と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の功力(くりき)によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十憶万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代(よ)きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりまして、過去も将来も離れない仲なのです」
 (同書・172P)

 時には、師匠と弟子が逆転して生まれてくるというのです。仏法の師弟関係が固定的ではないことを、端的に物語っています。
 池田先生は、師弟関係を弟子(衆生)を因、師(仏)を縁に配して、中心軸となるのはむしろ弟子であるとして、次のように述べています。
 「因と縁では当然、因が中心です。 縁はそれを助けるものです。 師弟の道も、弟子の自覚が中心です。 弟子がどれだけ強き求道心に立つか、どれだけ強き使命感に立つか、その一念の強さに師匠が応ずるのです。……
 弟子は師匠を信じ、求める。 師匠は弟子を守り、鍛(きた)える。 誓いを忘れた弟子たちをも最終的には見捨てない。 この最高に麗(うるわ)しい 『人間の絆(きずな)』 こそ、仏法の師弟です」
 (同書・170P)

 佐藤氏は、“多様な個性を持った学会員の皆さんが異体同心であり得るのは、日蓮仏法という共通の信仰、池田会長という共通の師の存在によって結ばれているからこそですね。……
 「弟子の活躍と勝利が、師匠の偉大さを証明する」 ということが共通認識になっているからこそ、同志の活躍も素直に、わがこととして喜ぶことができるのでしょう。 創価学会における 「師弟」 とは、そのような相互作用の関係、一人の師から世界に広がる弟子たちの ネットワークなのですね”
と語られています。

 この師弟の ネットワークは、決して上から下へという一方通行の関係でもなければ、道理に合わない封建的なものっでもなく、誰もが平等に師と結ばれている。
 そこには 「池田先生にお応えし、師の偉大さを証明する」 という 弟子の自覚と実践があり、師匠の慈愛もある。
 創価学会の世界には、麗しい 「師弟の絆」 があり、人間主義の結合があるのです。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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