等覚一転名字妙覚(1)

 4月度の NHK・ Eテレ の 「100 分 de 名著」 の第 4週に、作家の 安部龍太郎氏が出演されました。
 安部龍太郎氏は、歴史小説 『等伯』 を執筆され、第148回 直木賞を受賞されました。 「等伯」 とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師の “長谷川 等伯” のことで、代表作に 「松林図屏風」(国宝) がある。

 安部氏は、法華宗の信徒であった 等伯の命をかけた 「松林図屏風」 を画く胸中についての描写は、どうしても “法華経” を学ばなければならないと痛感され、紹介された方が 植木氏であった。
 渋谷の蕎麦屋さんで、4時間ぐらい話し合ったそうで、「覚り」 に到る心境について質問したところ、「等覚一転名字妙覚」 ということを教えてもらった。
 その意味を聞いた瞬間、「あ これだと言うことが、頭に浮かび、もうそのシーンが全てできあがった」 と語られている。 さすがに一流の人物は違うなぁ と思った。

 「等覚一転名字妙覚」 のこと。 妙覚とは、究極の覚りということです。等覚とは、それにほぼ等しい一歩手前の情況である。スタートラインの名字即 〔妙法の理を文字や言葉(名字)で知ったぐらいの初信〕 から、妙覚を目指して修行するが、しかしその延長線上には妙覚はない。実は、究極の覚りは自分の足下にあるという意味である。
 安部氏も 「自分を良く見せようと思っているかぎり、駄目である。そういう意識を捨てたところに、本当の自分が立ち上がる」 と、また、「松林図屏風」 は、「絵を超えた作品、曼荼羅に近い」 と語られている。

 植木氏は 「等覚一転・名字妙覚」 という言葉は、釈尊在世において法華経寿量品を聞いて得脱した人たちの成仏の仕方を言ったのであり、我々、末法の衆生が 「等覚一転・名字妙覚」 によって成仏するのではありません。 この言葉で言おうとしたことは、釈尊在世の衆生が、文上・脱益の仏法を聞いて成仏したように見えるけれども、実は彼らもやはり 「久遠名字の妙法」 を信受することによって成仏していたのだ、ということだったわけです。 この点を見失って、我々も 「初住乃至等覚」 「等覚一転・名字妙覚」 という経過を経なければならないというようなことを言ったら、大聖人の仏法を釈迦仏法と同じにしてしまうことになります。 この点、これまでの解説書では間違っていますので注意してください、と述べられ注意を促がしています。 (「三重秘伝抄」論考・351P)

 日蓮大聖人の仏法は、名字妙覚と言われますように、名字即の凡夫の身を離れて成仏はないということです。すなわち、“久遠名字の妙法・南無妙法蓮華経” を信じて、速疾頓成(そくしつとんじょう)といって直ちに即身成仏できるのであります。 
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梵漢和対照 「法華経」 をみる

 4月度の NHK・ Eテレ の 「100 分 de 名著」 に、「サンスクリット原典現代語訳 『法華経』 上・下巻」(植木雅俊訳) が、取り上げられています。
 法華経というお経は、どのようなものなのか? はじめての方にも、譬え話などTV の映像を通して見られますから、教理は深いのですけれど、わかり易く語られており、ご理解できるのではないかと思います。 また、仏法対話にも活用できるのではないかと思いました。

 「梵漢和対照・現代語訳 『法華経』 上下」 は、購入してから久しく積ん読していますので、この際、一頁でも開いてみたいと思いました。
 頁を開きますと、左側の上段は サンスクリット原典、下段に漢訳文、右側には現代語訳文が記載されている。 非常に見やすい構成になっています。 これから サンスクリット語を研究される方には、得難い参考書になるのではないかと思います。
 さて、どこを見ようかと思いまして、いつも読誦して馴染み深い “方便品の十如実相” のところを開きました。
 頁の冒頭から十如是までの文を、引用させて頂きます。

 漢訳
 舎利弗よ、如来は能(よ)く種種に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔軟(にゅうなん)にして衆の心を悦可(えつか)せしむ。 舎利弗よ、要を取って之(これ)を言わば、無量無辺未曽有の法を、仏 悉(ことごと)く成就したまえり。 止(や)みなん。 舎利弗よ、須(すべか)らく復(また)説くべからず。 所以は何(いか)ん。 仏の成就したまえる所は、第一希有難解(なんげ)の法なり。 唯、仏と仏と、乃(いま)し能く諸法の実相を究尽(くじん)したまえばなり。 所謂、諸法の 如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等 なり。 (梵漢和対照 「法華経」上・78P)

 現代語訳
 シャーリプトラ(舎利弗)よ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、希有(けう)にして驚嘆すべき大いなる 〔法〕 を獲得しておられる。 シャーリプトラは、まさにこのように言われたことを十分となすべきである。 シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、最高の希有なる 〔法〕 を獲得しておられるのである。
 シャーリプトラよ、実に如来は、如来が知っているところのあらゆるものごと (諸法)、〔その〕 あらゆるものごとについて、如来のために説かれるであろう。 シャーリプトラよ、あらゆるものごとについてもまた、如来こそが説き示されるのである。 あらゆるものごとについてもまた、如来こそが知っておられるのである。
 それらのものごと (諸法) は、何であるか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質 (自性) を持つのか―― 〔すなわち、〕 それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。 それらのものごと (諸法) に対して、如来だけが 〔上記の五つの点 において〕 明瞭であり、明らかに見ておられるのである。
 (同書・79P)

 私はこの現代語訳を見て、どうして・どこから “十如是” が出てくるのか? 分からなかった。 鳩摩羅什の完全なる創作ではないのかと思った。
 そこで、十如是に相当するであろうという ところを、太字にしてみたら、五つの項目がみえてきた。 それらの前に同じ言の “それらのものごとは” とあるところは “如是” に相当するところであろうと思う。 しかし、これらの五項目が、どの十如是に相当するのかは、さっぱり分からない。
 上記の訳文の 〔五つの点〕 に注釈がついています。

 注釈
 この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」 (是くの如き) を冠した十項目、すなわち 相 (外面に現れた姿)、性 (内面的な性質)、体 (本質・本体)、力 (内在的な能力)、作 (顕在化した作用)、因 (内在的な直接原因)、縁 (補助的な間接原因)、果 (因と縁の和合による内在的結果)、報 (内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等 (本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること) ――の十如是として訳している。 十如是と、鳩摩羅什訳 『大智度論』 巻三二の 体・法・力・因・縁・果・性・限礙・開通方便の 「九種法」 との関係を指摘する人もある。 (同書・135P)

 しかし、注釈を見ただけでは、頭の回転が鈍くなっているので 分かりません。 『大智度論』 に 「九種法」 が説かれているということですので、検索してみましたら、「十如是と五何法」 というものに、行きつきました。ご参照ください。
  参照 : 十如是と五何法 ―→ ここから

 この論文をみますと、“羅什三蔵は 「五何法」 を諸法の在り方と解し、大智度論の 「九種法」 を参考にして、理解しやすいように 「十如是」 に開いたものでしょう” とありました。 私もそのように思います。
 したがって、鳩摩羅什の創作・独創と言えば言えなくもないが、釈尊の精神・法華経の法理に則った意訳であり、その後の 「仏教東漸(とうぜん)」 という偉大な業績に貢献いたしました。

 鳩摩羅什が 「十如是」 を訳出してくれたことで、天台大師の 「一念三千論」 の三千という数値の構成が完成しました。
 また、漢字訳された 「法華経」 は、はるばる日本まで伝来し、日蓮大聖人によって、正法・像法時代には、 いまだ曽てなかった “漢文字による大曼荼羅御本尊” として、末法の衆生に授与してくださいました。
 この御本尊こそ、末法の衆生の三毒(貪・瞋・癡)に覆われた生命を変革することができるのである。 この御本尊を 世界広布の 「法華弘通のはた(旌)じるしとして」(1243P)、「世界の平和」 と 「一切衆生の幸福」 のために戦いましょう。 
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「希望の源泉」(21)(虚空会の儀式)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 21回は、「生命こそが宝塔」 という思想が生み出すもの であります。
 今回から 「見宝塔品第十一」 の章に入ります。  (第三文明・2018/4月・53P)

 「見宝塔品」 の 「宝塔」 とは何か?
 この品には、突然、大地から巨大な 「宝塔」(宝の塔)が出現し、空中に浮かぶという、まるで、壮大な SF 映画の一場面のような、現実にはあり得ないことが説かれている。 まさに、「時空を超えた世界」 での説法が展開されています。
 この宝塔について、次のように語られています。

 ――  日蓮が教学面で最大のよりどころとしていた天台の解釈では、宝塔の示すものについて、はっきりとは述べられていません。 それに対して日蓮の御書では、“宝塔とは生命のことである” と明確に、しかも繰り返し書かれています。 たとえば、『御義口伝』 には、「宝とは五陰(ごおん)なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり」(739P) とあります。 「五陰」 とは 「生命を構成する五つの要素」 のことで、要は 「生命自体が宇宙大の宝塔である」 という意味になります。……
 戸田城聖・第二代会長も、宝塔について、「これ(虚空会の儀式)ははなはだ非科学的のように思われるがいかん。 しかし仏法の奥底よりこれをみるならば、きわめて自然の儀式である」 (『戸田城聖全集』第六巻)と……。 つまり、宝塔は生命の尊厳の象徴ではあるが、決して架空の存在ではなく、仏眼(ぶつげん)を持つ者にははっきり見えるというのです。


 天台が 「宝塔」 について、はっきり解釈しなかったということは、まさに、末法の教主・日蓮大聖人に、譲られたたとしか思われません。
 大聖人は 『阿仏房御書』 に、「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」(1304P) と仰せです。
 御本尊を受持した衆生の当体こそ、宝塔にほかならないというのです。そして 「宝塔又南無妙法蓮華経なり」 と仰せになり、宝塔(虚空会の儀式)をもって、末法の衆生のために “文字曼荼羅の御本尊” を、顕わしてくださいました。まさに、見宝塔品こそ、御本尊の設計図であったのであります。 
 
 佐藤 勝  宗教は心のなかの現象だから、現実世界における物理的な大きさには左右されません。 それこそ、宇宙大のものをわが心のなかに置くことも自在なのです。 いわば、心のなかにも宇宙がある。 心のどこにあるのか、座標軸上に示すことはできないけれど、確かにある。 また、見える人には見えるのです。
 「目には見えないけれど、確実に存在するもの」 は、世のなかにたくさんあります。 たとえば、信頼・愛・希望……どれも目には見えませんが、確かにある。 そもそもわれわれの生命それ自体も、「これが生命です」 と見せることはできませんが、確かにある。
 そう考えてみれば、宝塔を架空のものではなく “生命のなかの現実” として捉えた戸田会長の考え方は、キリスト教徒の私にもすんなり理解できます。


 戸田先生は獄中にて、一日一万遍の唱題と法華経を真読することに徹せられ、虚空会の儀式に列座しているご自身を発見いたしました(獄中の悟達)。その後・釈放された日の夜、ご自宅の御本尊にお目通りし、胸中の実感を確認される様子が 「人間革命」 に記されております。
  ご参照ください。 〔ワイド文庫 『人間革命』 第1巻・55P)〕
             拙ブログの記事 ―→ ここから

 すべての宗教を結ぶ生命という共通項
 ――  創価学会の折伏はとかく、「他宗教に対する攻撃」 とみられがちです。 しかしそれは、他宗教の持つ、生命本来の働きから逸脱した部分を 「正している」 だけであって、決して 「攻撃」 ではないのだと思います。

 佐藤  学会の折伏が他宗教への攻撃ではないことの端的な証左が、池田会長が展開してきた広範な宗教間対話でしょう。 キリスト教、イスラム教など、異なる宗教を持つ各国の識者・指導者たちと、実りある対話集を数多くものにしてきたのですから……。
 池田・トインビー対談(『二十一世紀への対話』)について、「あれは池田会長から トインビー博士への、広い意味での折伏であった」 と述べましたが、他の対談集についてもしかりです。 池田会長の宗教間対話は、深い次元において折伏なのだと思います。 しかしそれは、「すべての生命は宝塔である」 という絶対的生命尊重の思想を根本に持つがゆえに、根本的な意味で相手を尊重する対話になるわけです。


 牧口先生が、日蓮仏法を 「超宗教」 と表現したことがあります。「生命こそ宝塔である」 とすれば、すべての宗教の大本が 「生命」 ということになると思います。
 佐藤氏も言われているように、“「すべての生命は宝塔である」 という絶対的生命尊重の思想を根本に持つがゆえに、根本的な意味で相手を尊重する対話になる” わけである。
 これは法華経に説かれている不軽菩薩の礼拝行と同じであり、折伏は相手の仏性を信ずる生命尊重の修行なのであります。

 世界宗教に 「聖地」 はいらない
 ――  その御本尊に日々の勤行唱題で向き合うことによって、学会員は己心に 「生命の宝塔」 を打ち立てることができます。 学会が宗祖ゆかりの地を聖地としてあがめない理由も、そこにあるのでしょう。 池田会長がこの章で言われるとおり、「御本尊を強盛な信心で拝する所は、いずこであれ、そこが最高の “聖地” である」 (法華経の智慧3巻・33P) からです。

 佐藤  この章に、宗教社会学者のブライアン・ウイルソン博士の 「特定の地を聖地として、そこに行かなければならないというような宗教では、世界宗教にはなりえない」 という言葉が紹介されているとおり、“聖地主義” をとらないことも世界宗教の特徴の一つです。 学会の場合、東京・信濃町の 「広宣流布大誓堂」 は、「会憲」 に明記されているとり、「信仰の中心道場」 であって 「聖地」 ではありません。 世界宗教には、聖地は必要ないが 「中心」 は必要なのです。

 日蓮大聖人は、「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為(た)るべし」(1343P) と仰せられております。
 大聖人は、竜の口の刑場において、仏界の大生命力を発揮され、幕府権力を打ち破りました。
 戸田先生は、獄中において、地涌の菩薩の本亊を悟られました。 ともに、人生にとって最悪の場所であるが、“何れの処にても候へ常寂光の都為るべし” という御金言を、実証することができたのであります。
 ゆえに、特定の時や場所を選ぶのではない。 「いま・ここ」 で永遠なる虚空会の儀式に連なることができるのである。
 池田先生は、「『いま』 永遠なる宇宙生命と一体になり、『ここで』 全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。 その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な 『生命の旅』 といえるのでないだろうか」 と述べられています。 (同書3巻・34P) 
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「新・人間革命」第16巻〔入魂の章〕(人間革命・総体革命)

 〔入魂〕
 黄金の「時」が来た
 天王山の「時」だ
 決勝点は近い
 一九七二年(昭和四十七年)の元日を迎えた山本伸一の胸には、天をも焦がさんばかりの闘魂が燃え盛っていた。
 元旦、家族で自宅の御本尊に向かい、唱題しながら、彼は 「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(256P) との 「撰時抄」 の冒頭の一節をかみしめていた。
 時を逃せば、何事も成就しない。 これまでに積み重ねてきた努力も、苦労も、すべて水泡に帰してしまう。
  (新・人間革命16巻・7P)

 「地域の年」 のこの年、元日の新年勤行会、2日の大学会総会、更に祖国復帰を5月に控えた沖縄指導と、先生の全身全霊の入魂の激励が開始されました。
 池田先生は、大学会総会に参加していた一人のメンバーに話しかけ、全力で激励しました。その青年は、大学を卒業して二年ほど、信心から離れていました。

 「すべてのもには使命がある。 花は咲くことを使命とし、太陽は輝き、暖かな光を送ることを使命としている。 水は流れ、清め、潤(うるお)すことが、使命といってよい。
 君も、私も、広宣流布という本然の使命をもって、この世に出現した地涌の菩薩なんだ。 その自己の使命を果たさないということは、開花せぬ花であり、輝かぬ太陽のようなものだ。 それでは、真の充実や歓喜などあるはずがない。
 仕事に力を注ぎ、職場の第一人者になることは大切です。 しかし、なんのための人生かを忘れてはならない。 それは、人びとと社会に貢献するためです。 この世から不幸を追放し、万人に幸福と平和をもたらす、広宣流布をなしゆくために、私たちの人生はある。
 この広宣流布という根本目的を忘れずに、職場の勝利者となり、立派な家庭を築き、信頼と幸福の実証を示していくことが大事なんです。 それが、仏法の力の証明になるからです」
 ………
 「信心を離れて、本当の生命の充実も、歓喜もありません。 どんなにお金を稼(かせ)ごうが、社会的に偉くなろうが、それだけでは、最後に残るのは空(むな)しさであり、老いや死に対する不安と恐怖です。 生老病死という人間の根本的な苦悩を解決できるのは、仏法しかありません」
  (同書・15~16P)

 先生は、人生の目的や信心の大切さについて、“広宣流布をなしゆくために、私たちの人生はある” “信心を離れてしまえば、最後に残るのは空しさであり、老いや死に対する不安と恐怖です” と、簡潔に且つ分かりやすく指導されています。

 その青年は、素直で優しそうだが、気の弱そうな感じであった。
 「“優しさ” と “気の弱さ” は、一つの性分のあらわれ方の違いといえるだろうね。 性分が “優しさ” として生かされれば長所となるし、“気の弱さ” となってあらわれれば短所となってしまう。 そして、性分が常に短所となって作用すれば、それが不幸の原因にもなる。 ……
 その要因は、自分の性分にあるから、どこに行っても同じようなことを繰り返してしまう」
 

 青年は自分の “そういう性格や性分といったものを、信心で変えられるんですか” と尋ねた。 
 「人間の性分自体は変わらないが、信心によって、自分の性分を良い方向に生かしていくことができる。 御書には 「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば……」(784P) と仰せです。
 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李と、それぞれがありのままの姿で、自分を最大限に生かしながら、幸福になる道を説いているのが仏法なんです。……」
  (同書・17P)

 自身の性格や性分について、悩んでいる方は多いのではないかと思います。残念ながら、人間の性分は変わらないと言われています。 しかし、“信心によって、自分の性分を良い方向に生かしていくことができる” と。すなわち、人間革命する以外に道はないのであります。
 そして先生は、人間革命の要諦について語ってくださいました。

 「根本的には、唱題に励み、生命を磨き抜いていくことです。 自身を見つめ、自分の問題点や生命の傾向性を自覚していくことが大切です。
 たとえば、“誰にでも、不幸は人のせいだと考えてしまう” “堪(こら)え性がない” “人の意見を聞かない” 等々、それぞれ性格の欠点がある。 それは自身の成長や幸福を妨げる一凶となる。
 ところが、人間は、言わなければ、なかなかこの一凶に気づかない。 だから、それを厳しく指摘し、切磋琢磨(せつさたくま)してくれる、先輩や親友人をもつことが必要になる。
 この自分の一凶と戦い、転換していく、真剣な祈りがなくてはならない。
 さらに、学会活動のなかで、自分を鍛え抜いていくことです。 御書には 「くろがね(鉄)をよくよくきた(鍛)へばきず(疵)のあらわるるがごとし」(1083P) と仰せです。
 学会活動に励み、困難な戦いに直面すればするほど、“こんなつもりではなかった” “なぜ自分だけ、こんなに苦労するのだ” “やめてしまおうか” 等々、自分の弱さや臆病さなどの欠点があらわれてくるものです。
 だが、自分に負けず、一つ一つの活動に勝利していくなかに、鍛えがあり、自身の一凶に打ち勝つ人間革命の道がある。 学会活動の場は、自分の生命を鍛え上げる道場です。 広宣流布の使命に生きようと心を定め、自分を鍛え抜くなかに、宿命の転換もあるんです」
  (同書・18~19P)

 生命を磨くには、唱題することが根本であるが、それだけではなかなか変わらない。 ダイヤモンドを磨くには、ダイヤモンドで磨くしかない。それと同じように、人間を磨くには、人間関係のなかで、すなわち、学会活動のなかで、自分を鍛え抜いていかねばならない。先生は、“学会活動の場は、自分の生命を鍛え上げる道場です” と指導されています。
 
 池田先生は、第一回 「大学会総会」 の席上、「総体革命」 について、指導されました。
 「私はこれまで、広宣流布とは 『総体革命』 であると述べてまいりましたが、あらためて、『総体革命』 とは何かについて論じておきたい。
 それは、日蓮大聖人が示された 『立正安国』 と同じ意義であり、その現代的な表現といえます。
 つまり、どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。 人間こそ、社会を形成する基盤である。 ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは、人間社会の営みのすべてに反映されていきます。
 たとえば、一人ひとりの人間が、生命の尊厳を自らの生き方として確立すれば、教育、科学、政治、経済、芸術等々、あらゆる分野で、生命を尊重し、人間を守るための方策や制度が、必然的につくられていくことは間違いありません。
 人間を蘇生させ、さらに、文化と社会を蘇生させていくことが総体革命であり、それが、広宣流布の一つの定義なのであります」
 さらに、伸一は、総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命であると強調した。
 そして、外からの革命が、破壊をともなう急進的な革命であるのに対して、総体革命は、どこまでも平和的であり、漸進的な革命であると述べ、こう訴えた。
 「この総体革命は、宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となるのであり、そこに私ども創価学会の、宗教運動の意義があることを知っていただきたい」
 ここで伸一は、総体革命を推進する個々人のあり方について言及していった。
 「総体革命を成し遂げるといっても、決して、特別なことではありません。 広宣流布をわが使命として、仏法対話に励み、人間革命の哲理である日蓮仏法を、人びとに伝えていくことです。 いわば、諸君の友情の広がりが、そのまま、総体革命につながっていきます。
 そして、各人が信心を根本に、それぞれの分野で最大限に個性を発揮しながら、社会に貢献し、一個の人間として社会で勝利の実証を示していくいくことが大事になる。
 それによって、仏法という生命変革の哲理に対する、賛同と共感が広がり、人間主義による平和と人道の連帯が築かれていくからです。
 ゆえに、自分のいる場所を、社会を、仏道修行の場と決め、粘り強く、黙々と精進を重ね、『信頼の旗』 『勝利の旗』 を打ち立てていっていただきたいのであります」
  (同書・24~27P)

 総体革命は、人間革命が根本となる。“人間の生命が変革されれば、それは、人間社会の営みのすべてに反映されていきます” と。
 それは、一人の人間の生命は、“十界互具・百界千如・一念三千” の当体である。一念三千 には、三世間(五陰・衆生・国土)までも含まれている。ゆえに、一人の人間革命が、地域を変え、国土を変え、未来までも変えることを可能にするのである。
 現に、戸田先生お一人の人間革命が、池田先生に引き継がれ、今や世界 192カ国にまで拡大され、先の世界青年部総会において、同日同時刻に一斉に唱題するという新企画が実行された。
 “南無妙法蓮華経” の音声が一斉に地球を覆い尽くすとは、「此の本理に称うて一身一念法界に遍(あまね)し」(247P) の法理からして、未曽有の画期的な素晴らしいことであります。
 法華経に云く 「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」(505P) と、この仏の御金言を実証したのは、我が “創価学会・SGI” のみである。  
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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