教育勅語について

 毎年、終戦の 8月を迎えると、戦争の悲惨なる体験が語られ、異口同音に “絶対に、二度と戦争はしてはならない” と決意を披歴しています。戦争を忘れ去らないためにも、戦争体験の継承は、大事なことで絶対・必要不可欠であると思っています。
 しかし一方で、なぜ、無謀なる戦争をしてしまったのだろうか といつも思います。この戦争に至った原因を究明し、断罪せずしては、片手落ちで真の平和教育・学習にはならないと思います。

 思えば日本民族は、もともと農耕民族ですから 狩猟民族と違って、好戦的な民族ではありません。
 江戸時代の約 260年間、一揆の鎮圧を除いて、戦争らしきものは一つも無く 平和な時代でした。この時代に、日本独自の文化が花ひらき、今では、数多くの外国人が、日本文化に魅力を感じて来日しています。

 ところが、明治維新以後、一通り見ただけでも、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、第一次大戦、満州事変・日中戦争、太平洋戦争と、終戦までの約 80年間、戦争をやってやりまくっている。
 平和を愛する民族が、なぜ、これ程までも変わったのでしょうか

 私はその第一の理由は、明治政府が、国家の精神的支柱として 「国家神道」 を護持し、実践したことであると思っています。
 この点は、既に ブログに記しているところもありますので、よろしければご参照ください。

  参考: 「8月15日」――→ ここから
  参考: 「歴史の歯車」―→ ここから
  参考: 「神道の国教化」→ ここから
  参考: 「靖国神社」――→ ここから

 第二に、国の教育方針を、「教育勅語」 に則り、国民を好戦的な軍国主義者に仕立て上げた からだと思います。
 先だって、森友学園関連の幼稚園で、園児に 「教育勅語」 を暗誦させていた とのことです。全国的には、ほかにも教材として使っているところが 結構あるようである。 知らないうちに、じわじわ広がってきているようだ。
 このような状況は、「国家神道」 の再来に繋がりかねない危険な萌芽が潜んでいる と思います。
 ゆえに今回は 「教育勅語」 について考えてみたいと思います。

 教育勅語の読み下し文、途中からです。(抜粋)
 爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。 以下略

 現代語訳です。
 あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友とは信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくし、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳を積み、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。

 はじめに、「爾(なんじ)臣民」 とありますが、「臣」 とは 「主君に仕える者、家来」 という意味で、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の考え方であり、現代の日本国憲法の主権在民とは相いれない言葉なのです。

 次の 「父母に孝行し、兄弟は仲良くし、…… 法律を守り」 のここまでは、国民のなさねばならない徳目である。
 道徳論として当たり前のことだが、これがあるからと言って “勅語も良いこと書いてあるとか、教育方針として取り入れるべきだ” などという人もおるが、教育勅語の一部分ではなく全体を見て、どのような人間を育成しようとするのか、見極めなければならない。

 「もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けよ」 と、この一行の文によって、どれだけの若者が一兵士として、特攻隊員として犠牲になられたか、計り知れないのである。

 教育勅語の目的は、天皇の国家の 「忠良な臣民」 を作ることです。
 本当の国家は 「国民の幸福と安穏のためにある」 はずである。 それがここでは 「国民は天皇の国家のためにある」 という考えになっている。
 「国家神道」 の “八紘一宇(はっこういちう = 世界を一つの家とする)” という思想のもと、天皇を頂点とする “大東亜共栄圏” の構想を正当化し、天皇のために戦うのが正義であり、大義であると教えた。そのためには、他国への侵略戦争も、正義の戦争となり、聖戦と言われたのである。
 特に、満州事変以後の十数年間、ひと時の休みもなく、戦争をやりまくり、挙句の果てに亡国となったのである。

 国民を天皇の 「忠良の臣民」 とみなし、もし危急なことがあったら 「皇室の命運を助ける」 ことを、国民の義務として教える 「教育勅語」 が、主権在民を柱とした日本国憲法の精神に反することは明白であります。
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希望の源泉」(13)(慈悲と智慧)

 「希望 源泉」(池田思想を読み解く)の第 13回は、慈悲と智慧は行動のなかにこそ表れる であります。  (第三文明・2017/8月・53P)
 今回から 「薬草喩品第五」 の章になります。 この章は、仏の 「慈悲」 が大きな テーマになっています。仏教の 「慈悲」 と キリスト教の 「博愛」 の違いについて、述べられています。

 「慈悲」 と 「博愛」―― その共通項と差異 
 佐藤 勝  実は、キリスト教に 「博愛」 という概念は希薄です。 「博愛」 とはすべての人間に平等に向けられる愛ですが、個々の キリスト教徒がそのような愛を持つことは、そもそも期待されていません。 「隣人を自分のように愛しなさい」 という教えですから、愛の対象は自分の目の届く範囲なのです。 自分と具体的な関係性を持った相手に隣人愛を向けよ、という教えであって、抽象的な愛、全人類に向けての博愛ではないのです。
 それは なぜかというと、キリスト教は 「世界の終わりは近い」 という危機意識のもとに成り立っているからです。 “限られた時間のなかで、一人でも多くの人を救わなければいけない” ということで、愛の実践も個別具体的にならざるを得ないわけです。


 キリスト教の 「博愛」 は、自分と具体的な関係性を持った相手に対してのみであり、全人類や生きとし生きるものすべてに対するものではないのですね。 勉強になりました。
 
 佐藤  この 「薬草喩品」 の章は、仏教とキリスト教の共通項と差異を考えるうえでも示唆(しさ)に富む内容となっています。 たとえば、『法華経』 「薬草喩品」 では仏を 「一切知者」 ――(一切を知る者) と呼んでいますが、そのことに触れて、キリスト教における神の 「全智」 と比較して、池田会長は次のように語っているのです。
 「キリスト教の場合は、創造神の完全な智慧を全智といっているようだ。 万物は神によって創造されてものであるから、神は一切を知っているというのです。
 仏の一切知はそういうものではありません。 さまざまな解釈があるが、私は、あくまでも衆生を救おうとする慈悲ゆえに、その衆生のことや説くべき法を知り尽くす智慧が、仏の一切知であると思う。 いわば 『慈悲と一体の智慧』 です。
 その点から、『ミリンダ王の問い』 という仏典に説かれている解釈に心引かれる。 それは、仏は知りたいものに 『傾注(けいちゅう)』 するゆえに、一切を知ることができるというものです。 あらかじめ全部を知っているというのではないのです」
 (法華経の智慧 2巻・100P) 
 
 仏法でも、仏の “一切知” を説くが、仏はもともと人間であるから、初めから全知全能であるなんて、そんなことは言っていない。
 ただ、大慈悲心のあるゆえに、衆生を救うことに心を傾ければ、その衆生を救うために必要な一切のことが分かるというのです。すなわち “慈悲と一体の智慧” なのです。

 佐藤  そのように、キリスト教の 「愛」 と仏教の 「慈悲」 には共通項もありますが、大きな違いを挙げるとすれば、キリスト教が立脚するのは、「アンチ・ヒューマニズム」 であるという点でしょう。 これは誤解されがちな点ですが、キリスト教はヒューマニズムと相いれません。 キリスト教では 「原罪を持っている人間には限界があり、弱いものである」 と捉えるので、人間を手放しで肯定する ヒューマニズムは否定されなければならない、と考えるからです。
 つまり、人間そのものは評価しない。 しかし、イエス・キリストと触れ合うことによって、弱いものである人間に変容が起きる、という考え方なのです。 その点が、人間を価値ある存在として肯定する仏法の 「人間主義」 とは、本質的に異なるわけです。


 ヒューマニズムとは、“人間主義・人道主義” などと訳されるが、キリスト教の立脚点が “アンチ・ヒューマニズム” である、とは 私も、誤解するところでした。
 仏法の 「一切衆生悉有仏性(一切衆生に悉く仏性有り)」(425P)「一色一香中道に非ざること無し」(1339P) 等、人間のほかにも、非情の草木や小石等までも生命(仏性)が有ると捉える、仏法哲理の深遠さ・素晴らしさに思いを新たにしました。

 「自力」 と 「他力」 バランスの重要性
 佐藤  私は創価学会と池田会長について学ぶなかで、仏教を 「他力」 の教えと 「自力」 の教えに二分することは間違いではないかと考えるようになりました。 実際は 「他力即自力」 「自力即他力」 であって、自力と他力という分節化を超えていくことが、仏教本来のありようなのではないか、と……。
 慈悲と智慧についてもそれはしかりで、仏が衆生を一方的に救う 「他力」 でもなければ、一方的な 「自力」 でもないんですね。


 日蓮大聖人も 「今の法華経は自力も定めて自力にあらず」 「他力も定めて他力に非ず」(403P) と仰せです。
  参考:「他力と自力」 ―→ ここから

 池田会長は、米ハーバード大学の講演 「21世紀文明と大乗仏教」 で、次のように述べています。
 「そこでは二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう=さそい勧める)されているからであります。
 ………
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。 他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。 しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである」
と。

 念仏宗のような 「他力」 オンリー、禅宗のような 「自力」 一辺倒では、駄目なのである。
 生命は十界互具であり、多様性があります。そこへ片一方へ偏った邪教を信ずると、自己の生命に歪みが生じてきます。その歪みが不幸の現証として現れてくるのである。
 それには、円教、円満経と言われる 「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊」 に南無し、その歪んだ生命を自分自身で、円満になるように正す以外にないのであります。 

 佐藤  それから、「薬草喩品」 の章の池田会長の次の発言は、宗門と創価学会の 「慈悲と智慧」 の違いを考えるうえでも示唆的だと思いました。
 「どんなに 『自分は悟っている』 と言ってみても、振る舞いが無慈悲であれば、ウソ なのです。 智慧は見えない。 その見えない智慧を推し量る目安は行動です。 仏の出世の本懐は、どこまでも 『振る舞い』 なのです」 (同書・103P)

 特に、阿部日顕などは法主という地位にありながら、中啓(ちゅうけい= 親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように作った扇)で、所化小僧の頭を叩く “中啓パンチ” は有名である。
 いくら言葉で慈悲と智慧を説いても、無慈悲であれば むなしい限りである。慈悲がなければ邪智になり、かえって、人を傷つけてしまい、人材育成など思いの外のことである。
 大聖人は 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174P) と仰せです。
 本当の悟りを得た人は、一切衆生の幸福と安穏を願う 無量の慈しみの心を起こすのです。そうでなければ眞の悟りとは言えないのです。
 仏の眞の悟り、真の智慧は、無量の慈悲と一体なのです。 その “「慈悲と智慧」 は、行動・振る舞いのなかにこそ表れる” のであります。
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「希望の源泉」(12)(信仰と理性)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 12回は、「信仰と理性」 の関係めぐる根源的思索 であります。  (第三文明・2017/7月・53P)

 何かを信じていない人間などいない
  まず、「信解品」 という タイトルについて、鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢文に訳す際、声聞の弟子たちが 「信」 によって仏の智慧を開いたという内容であることから、「信解」 と意訳しました。

 佐藤 勝  信解の 「解」 は理性を意味するものと捉(とら)えられますから、「信解」 という言葉それ自体が信仰というものの本質を一語で示しているかのようですね。
 「信」 だけで 「解」 がないのでは妄信になってしまうし、「解」 だけで 「信」 がないのではそもそも信仰とは呼べません。 信仰者にとって、「信」 と 「解」 は一体であるべきなのです。 その意味でこの 「信解品」 の章は、「そもそも信仰とは何か?」 という大テーマに迫った内容と言えるでしょう。
 池田会長も、次のように語られています。

 「重要なことは、この 『信解』 という二文字のなかに 『信心と智慧』 『信仰と解脱(げだつ=悟り)』 という仏法上の根本問題が凝縮(ぎょうしゅく)されていることです。
 ひいては 『信仰と理性』 『信じることと知ること』 という哲学と文明の根源的な課題にも連なってくる」
 (法華経の智慧2巻・57P) 

 日本では 「自分は無宗教だ」 と思っている人が多数派である。そう言う無宗教は、たいていの場合 「宗教に対する無知」 からきているようです。
 そもそも、「自分は無宗教だ」 と思っている人でも、何かを信じて生きているものです。つまり、無神論者は 「無神論を信じている」 のだし、「お金だけがすべてだ」 という人は、「拝金教」 の信者である。このように、何も信じていない者など、実はいないのである。
 
 佐藤  「『生きる』 ということは、何らかのものを 『信じる』 ところから出発するわけです。 社会全体が、互いの信頼なくしては成り立ちません」 という話を受けて、池田会長は、次のように述べているのです。
 「『信』 は人間の生の基本的条件であり、人間は 『信ずるか』 『信じないか』 を選択することはできない。 選択できるのは 『何を信ずるか』 ということだけなのです。 そして、この 『何を信じ、何を信ずべきでないか』 を体系化したのが宗教であり、その意味で宗教は、万人の人生・日常と密接にかかわっているのです」 (同書2巻・61P)

 先生は “「信ずるか」 「信じないか」 を選択することはできない。 選択できるのは 「何を信ずるか」 ということだけなのです” と述べられています。
 したがって、宗教においても数多くある中で、どれも一緒で同じだと言うのは、味噌も糞も同じだと言っているようなものである。
 ゆえに、宗教の高低浅深・善悪邪正を厳しく正して行かなければなりません。 信ずる宗教の如何によって、人生の幸・不幸が決まってしまうからです。これが 「立正安国論」 の教えであります。

 真の宗教は理性に反するものではない
 佐藤  池田会長が語られている次の一節は、「信仰と理性」 のあるべき関係を的確に説明していて、実に見事だと思います。
 「何らかの信念が、その人の生きる基盤となっている。 だから、その人の信念それ自体は最大に尊重されなければならないことは言うまでもない。 しかし、その信念も 『理性』 と 『事実』 による検証(テスト)を受けなければ、自分の主観のなかで終わってしまい、他に対する普遍性をもちません。
 法華経で説かれる信が、解と一体になった信、すなわち 『信解』 であるということは、その信がたんなる主観とどまっていないことを意味している、と言えるでしょう。
 もちろん、仏の悟った根源の法は 『言語道断・心行所滅』(『摩訶止観』) で、言葉や理性の働きで把握し尽くせるものではありません。 しかし、言葉や理性のおよぶ範囲では、その働きを最大に尊重していくのが仏法の立場です。 仏の悟りは理性のおよぶところではないとしても、少なくともその悟りは理性に敵対し、理性的批判を拒絶するものではないのです。
 信解の 『解』 とは、『智慧』 のことです。 理性そのものではないが、理性と合致し、理性がその一部であるような 『智慧』 です。極限まで理性的でありながら、同時に全人格的である 『智慧』―― それを 『信』 によって得るのが 『信解』 です」
 (同書2巻・64~65P)

 『御義口伝』 に 「信は価(あたい)の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」(725P) と仰せです。
 池田先生は “その意味で、信と解は対立するものではないことはもちろん、信が解を支(ささ)えるというだけの静止的なものでもない。
 本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める 「解から信へ」―― この双方向の ダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが 「信解」 の本義といえるでしょう。
 そう考えれば、梵語の 「アディムクティ」 が 「志(こころざし)」 とも訳せることは興味深い。 成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。 智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯 ―― それが仏界です。 人間としての限りなき向上へ。 その 「志」 に進む両輪が 「信」 と 「解」 なのです”
 (同書2巻・78~79P) と述べられています。

 ――  池田会長は別の個所で、次のようにも述べています。
 「仏法の 『信』 とは、理性を振り捨てて盲目的に帰依するというような 『狂信』 では決してない。 敬虔(けいけん)な探求心を出発点として智慧を育んでいこうとする、理性的な精神の営みなのです」 (同書2巻・68P)
 佐藤  「信解品」 の章の終盤に、池田会長の次のような言葉もあります。
 「今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき 『信と知の統合』 です。 それは壮大な文明的挑戦です。 『信なき知識』 と 『理性なき狂信』 に引き裂かれた人間社会を、復興させる試みです」 (同書2巻・80P)

 戸田先生の巻頭言 「思想の混乱」 には、「世界の文化人が迷乱している思想に二つある。 一つは知識が即智慧であるという考え方である。 知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない」 と。
 池田先生は “今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき 「信と知の統合」 です。 それは壮大な文明的挑戦です” と。 そして引き続いて
 「また、生命という “親” のもとに、“放浪の息子(近代の知)” が帰還する物語ともいえる。
 「信解」。 それは現代という 「精神の漂流時代」 を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させていく キーワードと言えるのではないだろうか」
 と述べられています。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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